ハンス・ベルメールはドイツ出身の芸術家だ。日本では球体関節人形作家の先駆者として認知されている。
※球体関節人形については
https://kusanomido.com/life/music/28223/
ベルメールが生み出した作品は日本の芸術家たちにも大きな影響を与えた。人形作家である四谷シモンや、小説家の澁澤龍彦が特に有名だ。
2004年に公開された映画『攻殻機動隊2:イノセンス』に出てくる球体関節人形の一部も、ベルメールが制作した球体関節人形「セカンドドール」からインスピレーションを得たものである。
人形作家としての印象が強いベルメールだが、彼が生涯で作成した人形はたった3体であった。
彼にとって、球体関節人形は数多くある表現方法のうちの1つに過ぎなかったのだ。
不気味でありつつも人々の興味を引き付ける人形たちを、ベルメールはどのような目的で制作したのか。それには彼の生まれ育った時代と環境が関与していた。
今回は時代の流れに全力で反抗した芸術家、ハンス・ベルメールの生涯について解説しよう。
ベルメールが芸術家となるまで
ベルメールは1902年3月13日に、ドイツ帝国シュレージエン地方カトヴィッツ(現・ポーランド領カトヴィツェ)の、裕福な技師の家の長男として生まれた。
父親は優秀なエンジニアであったが封建的な考えを持ち、厳格かつ冷淡で家庭内では独裁者のように振る舞っていたという。それに反して母は穏やかで愛らしく少女のように無邪気な女性で、ベルメールは父に怯えつつ母にかわいがられながら成長した。
ベルメールが置かれた家庭環境は後の彼の芸術に大きな影響を与えた。ベルメールにとって、外の世界は厳格で恐ろしいもの、内の世界は優しく少女的で心癒されるものだったのだ。
ベルメールは父の勧めで入ったベルリン工科大学を友人の「ダダイスト」たちの影響を受けて中退してからは、小説の表紙や挿絵を描く仕事で生計を立て、20代前半には印刷やデザインを請け負う事務所を設立する。
ベルメールが芸術家としての活動を本格的に開始したのは、1933年のナチスによる政権掌握がきっかけだった。
ダダイストとは
ベルメールに影響を与えた「ダダイスト」とは、「ダダイスム」という芸術思想を持つ芸術家のことだ。
ダダイスムは、1910年代半ばに第一次世界大戦に対する抵抗やニヒリズムを根底に持つ思想で、ダダイストたちは旧時代的な秩序や常識に反旗を翻して、芸術による既存の道徳の否定や攻撃、破壊活動などを行っていた。
後にダダイスムから離脱した一派から、サルバドール・ダリなどで知られる「シュルレアリスム」が派生する。
ベルメールもまたダダイスムとシュルレアリスムを表現スタイルとして、既存の常識や道徳に真っ向から抵抗する作品を多く手がけた芸術家であった。
ナチスに対する抗議
ナチスがドイツの政権を掌握したことをきっかけに、ベルメールはファシズムに対する抗議として社会貢献のための労働を放棄して、フリーの芸術家となり人形制作を始めた。
ベルメールが自身の思想の表現方法として少女の人形を選んだのは、オーストリアの画家オスカー・ココシュカの手紙を読んだこと、そして彼が前年に観たオペラ『ホフマン物語』に登場する美しい自動人形の少女「オランピア」や、彼の従姉妹である美少女ウルスラに影響を受けてのことだった。
ベルメールはウルスラを異性として見ていたと言われるが、彼にはこの頃病身の妻がいたという。
つまり、ウルスラへの欲望は叶えてはならないものだった。
さらにはナチスに対する反発心に加え、旧時代的で独裁的な父に対する憎しみも彼の作品に影響を与えた。ベルメールにとってナチスとは、社会的でありつつ独裁的であり、実父のイメージと結びつく組織だったのだ。
ベルメールが最初に作った人形は、ナチスが提唱していた優生思想と行き過ぎた健康志向を批判するために、皮膚は破れ土台の木枠がむき出しになっている状態だったという。
ベルメールはその人形のヘソにガラス球をはめ込み、体内には人形の左胸のボタンと連動するパノラマを設置した。
社会にとってこの上なく無意味で無益な機能を備えたベルメールの人形はその不完全な姿に、彼が抱くナチスや社会への反発心、父への憎悪、そして手に入れられない美しい少女への憧憬を内包していたのだ。
『Die Puppe』
ベルメールは人形制作開始の翌年の1934年に、写真集『Die Puppe(人形)』を自費出版で刊行する。
『Die Puppe』はパリのソルボンヌ大学に入学したウルスラの手を経て、パリを中心に活動していたシュルレアリストたちの手に渡って称賛され、シュルレアリスムの機関誌『ミノトール』の1935年版6号の表紙に選ばれた。
そして1935年から、ベルメールは「セカンドドール」の制作に着手した。
「ファーストドール」の関節は球体ではあったものの動かすことはできなかったが、「セカンドドール」には可動式の球体関節が用いられた。
ベルメールは完成した「セカンドドール」をパーツごとにバラバラにしたり、様々な形に組み替えて、家の階段や台所、庭などに置き120点以上の写真を撮影した。
ベルメールの考えによれば「女性の体は各部分が転換可能で、身体の相互交換や入れ替えは容易である」とのことだ。
その事実を証明するかのようにベルメールの「セカンドドール」は、現実にはありえない形で上半身が接続されていたり、奇妙で不気味かつ退廃的な雰囲気を醸し出している。
そしてベルメールはこの「セカンドドール」以降、人形の制作は行っていない。
パリへの亡命
ベルメールの芸術家として名声は高まったが、彼の作風はナチスの主義には反するものだった。
ナチスの脅威から逃れるために、1人目の妻の死後、ベルメールは1938年にパリへと亡命する。
1939年にはドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに、第二次世界大戦が勃発する。
ドイツ国籍のベルメールは仲間らとともにゲシュタポに捕まり、南フランスのレ・ミル収容所で一時抑留されるが、1940年に解放されてからはパリに定住し、パリのシュルレアリストたちとともに、精力的に活動を行った。
終戦後にベルメールが手掛けたのは、エロティシズムを追求するようなドローイング画や版画、写真などの平面作品だった。
フランス人作家ジョルジュ・バタイユの小説『眼球譚』や『マダム・エドワルダ』の挿画、詩と写真集『人形の遊び』の写真などは、ベルメールの手によるものだ。
ウニカ・チュルンとの出会い
ベルメールはフランス人女性と再婚して双子の娘も生まれていたが、その後離婚している。
1953年、戦後始めて母国のドイツに一時滞在し、ドイツの画家で作家のウニカ・チュルンと出会い交際を始め、翌年よりパリで同棲生活が始まる。
1960代まででベルメールの創作活動は終わったが、1970年にウニカが統合失調症で自殺するまで2人の関係は続いた。
1971年、パリの国立現代美術センターで大きなベルメール回顧展が行われ、その4年後にベルメールは膀胱がんにて病没した。
ベルメールの死を悼み、パリ・シカゴ・ジュネーヴではベルメール展が開催された。
現在ベルメールとウニカ・チュルンは、多くの芸術家が埋葬されているパリのペール・ラ・シェール墓地に眠っている。
狂気じみた人形の作り手として知られるベルメール。しかし彼自身は決して狂ってはいなかった。
激動の時代の中で、きわめて冷静にしかし情熱的に、エロティシズムと従来の道徳への反抗を突き詰めた芸術家だったのである。
参考文献
ピーター・ウェブ (著), ロバート・ショート (著), 相馬俊樹 (翻訳)『死、欲望、人形: 評伝ハンス・ベルメール』
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