岸田劉生(きしだ りゅうせい)といえば、日本の近代美術を語る上では避けて通ることのできない画家の1人だ。
その名を覚えていなくとも、かの有名な『麗子像』を描いた画家と聞けば、ピンとくる方が多いだろう。
美術や日本史の教科書に掲載され、今も多くの子供や学生たちに鮮烈なインパクトを与え続けている『麗子像』は、劉生が愛娘の麗子をモデルとして描いた一連の作品のことを指す。
劉生は、日本美術独特の湿度の高い退廃的でグロテスクな雰囲気を言葉で表現するために「デロリ」という造語を生み出した功績でも知られており、劉生自身もまた「デロリ」の表現を追求した画家だった。
劉生が画家としての魂を込めて描いた『麗子像』は、岸田劉生の名を世に知らしめた作品で、1918年に一連の『麗子像』の1作目とされる油彩画『麗子肖像(麗子五歳之像)』を第6回草土社展に出展してからは、毎年複数回に渡り様々な『麗子像』を制作した。
しかし、1925年以降は間が空き、4年後の1929年に制作した2作の『麗子十六歳之像』を最後に劉生が『麗子像』を描くことはなくなり、その年の12月に38歳で病により急死したのだ。
なぜ劉生は画家生命を賭して情熱を注いだ『麗子像』を描かなくなってしまったのだろうか。それにはモデルが劉生の実の娘であるということが大いに関わっている。
今回は画家・岸田劉生の代表作『麗子像』を軸に、岸田劉生・麗子親子の生涯について触れていきたい。
岸田劉生の生い立ちと麗子の誕生
岸田劉生は1891年6月23日に、実業家の岸田吟香の四男として東京銀座に生まれた。
14歳になる年の1905年に相次いで両親を亡くし、現在の筑波大付属中学・高等学校の前身である東京高師附属中学を中退してから、1908年に洋画家・黒田清輝に師事する。
劉生の画家としての才能は花開き、2年後の1910年に開催された文展(現在の日展)では、2点の作品が入選した。
若い時期から才能を発揮し、美術展を通じてバーナード・リーチや武者小路実篤など多くの文化人と交流を持った劉生は、1912年に高村光太郎や萬鉄五郎らと共に芸術家集団ヒュウザン会を結成し、第1回ヒュウザン会に14点の作品を出展して画壇への本格デビューを果たす。
後に妻となった小林蓁(しげる)とはこの展覧会を通じて出会い、翌年の翌年7月に祝言を挙げた。
結婚から約9ヶ月後の1914年3年4月10日には、妻との間に長女となる女の子が誕生する。
劉生はその日の日記に「美しくなれ、丈夫に育て。俺達はきつと御前を生涯愛してやる」と記した。
そして美しく強く育つようにと願いを込めて、生まれたばかりの娘に麗子と名付けたのだ。
劉生は麗子を溺愛し、日記の中に麗子の成長の記録を文章やスケッチで事細やかに残した。
麗子が3歳になる年には、真の第1号麗子像ともいえる『麗子像(林檎を持てる麗子)』を水彩で描いた。
翌年麗子が4歳になり聞き分けが良くなると、劉生は麗子をモデルとして油彩画の制作に取り掛かり、『麗子肖像(麗子五歳之像)』(当時の麗子の実年齢は4歳だったが、数え年では5歳となる)を完成させて、1918年に東京赤坂で開催された第6回草土社展に出展した。
麗子と相思相愛だった鵠沼での生活
『麗子肖像(麗子五歳之像)』を発表する前の1916年に劉生は体調を崩し、肺結核罹患を疑われた。その翌年の1917年、岸田一家はそれまで住んでいた渋谷区の山谷を離れ、転地療養のために東京よりも温暖で自然の多い鵠沼に移住する。
1923年9月に起きた関東大震災で居宅が倒壊するまで鵠沼で暮らし、画家としての才能とカリスマ性あふれる劉生を慕って鵠沼を訪れる多くの文化人と、幅広い交友関係を持った。
劉生は鵠沼での暮らしで健康を取り戻しながら、現存するだけでも30点以上に及ぶ『麗子像』を含む、多くの作品を油彩に限らず様々な技法で描いた。
幼い頃の麗子は自分を溺愛する父・劉生に良く懐いており、長時間のポージングで足がしびれて立てなくなっても、父の役に立ちたいがために絵のモデルを積極的に務めたという。
劉生は神経質な人物で、病的な潔癖症かつ癇癪持ちだったことが知られているが、家庭内で癇癪を起した時は近所の海岸に出て海を眺めて気持ちを落ち着かせ、家に戻ると麗子に「悪いお父さまは海に捨ててきたよ」と謝るなど、家族に対しては優しく振る舞おうと努めていた。
劉生の画家人生の最盛期と言われる鵠沼時代、この頃の劉生と麗子は紛れもなく相思相愛の父娘であった。劉生の麗子への溺愛ぶりの様子は、劉生が記した『鵠沼日記』の中に見て取ることができる。
関東大震災をきっかけに京都に移住
関東大震災で居宅が倒壊してしまったことをきっかけに、1923年9月16日に岸田一家は慣れ親しんだ鵠沼を去り、名古屋での一時滞在を経て京都へと移住する。
劉生は32歳、麗子は9歳になっていた。劉生の京都移住により草土社は自然解散し、劉生は春陽会に活動の場を移した。
しかし、慣れない京都での生活で麗子は体調を崩し、学校に通えなくなってしまう。
一方で元々日本美術に強い関心を抱いていた劉生は、古美術収集に没頭し始めて金遣いが荒くなり、花柳界との繋がりもできてお茶屋遊びにのめり込み放蕩するようになった。
この頃から、劉生と麗子との間に距離が生まれていく。
その事実を現すかのように、京都に移り住んで1924年3月7日に『童女舞姿』を完成させてからは、1929年まで『麗子像』を描き上げることはなかった。
夜な夜な遊び回るようになった劉生だが、絵を描く頻度が落ちたわけではなく、むしろ古美術を購入する資金を得るために多くの作品を描いては売却している。
それでも『麗子像』を描く頻度だけは、鵠沼時代に比べて格段に落ちていたのだ。
しかし、思春期に足を踏み入れ始めた時期に大きな環境の変化を迎えた上に、家計が破綻しそうになるほど湯水のように金を浪費し、放蕩生活に浸る父を間近で見ていた麗子の心情を考えれば、『麗子像』が描かれなくなった理由は想像に難くない。
岸田一家が京都で暮らしたのは1923年10月から1926年1月までで、約2年ほどの間に春陽会を抜けて孤立し放蕩生活で退廃した劉生は、麗子の健康と妊娠した妻との落ち着いた生活を取り戻すために、鎌倉への移住を決意した。
鎌倉に移住し、まともな生活を取り戻す
1926年2月に鎌倉に移り住んだ翌月、岸田夫妻の間に長男の鶴之助が誕生する。
麗子に年の離れた弟ができて、一家の生活は徐々に落ち着きを取り戻していった。
それから3年後の1929年5月、劉生は未完のものを含めれば約4年ぶりに『麗子像』を手掛け、最後の『麗子像』となる『麗子十六歳之像』を完成させた。麗子は実年齢15歳となっており、この作品は娘から大人の女性への1歩を踏み出し、初めて日本髪を結った麗子の姿を描いた作品だった。
しかし劉生はその翌月にもう1点、『麗子十六歳之像』を制作している。1作目の『麗子十六歳之像』には劉生の作風が表現されているが、2作目は雰囲気が大きく変わり、「デロリ」の雰囲気をなくした美人画のように描かれているのだ。
おそらく2作目の『麗子十六歳之像』は劉生の「デロリ」の美を表現するための『麗子像』ではなく、娘の成長を父として祝うために描いた、「岸田麗子の肖像画」だったと考えられる。
その年の9月末、劉生は満州に渡って大連で個展を開き、さらにそこからヨーロッパに旅立つ計画を立てていた。劉生はかねてから芸術の都・パリに行くことを夢見ていた。
しかし、元々丈夫ではなく潔癖症でもあった劉生は、大陸での生活に馴染めずに体調を崩してしまう。
ヨーロッパ行きを断念して11月末に帰国し、旅行に同行していた田島一郎の故郷である山口県にしばし滞在するも、それからわずか1ヶ月足らずの12月20日に滞在先で急死してしまったのだ。
38歳という早すぎる劉生の急な死に、家族や劉生と懇意にしていた人々は皆、大きな衝撃を受けたという。
父・劉生を亡くした後の麗子の生涯
劉生が亡くなった頃、麗子は鎌倉女学院に通う学生だった。
幼い頃から父・劉生が絵を描く姿を間近で見続けて芸術に関心を抱き、かつ父から絵の才能を受け継いでいた麗子はやがて、舞台女優や喫茶店経営をしながら、亡き父と同じ画家を志すようになる。
私生活では、劉生の旧友である武者小路実篤が創設した「新しき村」で知り合った歯科医師と23歳の頃に結婚して1男2女を儲けるが、やがては離婚し8歳年下の岸田幸四郎と再婚した。
しかし画家、文筆家として精力的に活動する最中、麗子は1962年7月26日にくも膜下出血で倒れ、48歳の若さで急逝してしまった。
麗子の娘であり、劉生の孫である岸田夏子氏は東京藝術大学・大学院を経て油彩画家となり、2012年まで山梨県北杜市にある清春白樺美術館の館長を勤め、現在は同美術館の名誉館長となっている。
波乱の人生を送り、若くして命を落とした劉生の芸術に対する情熱は、愛する娘の麗子から孫の岸田夏子氏へと、世代を超えて途切れることなく受け継がれていたのだ。
参考文献 :
岸田麗子 (著)『父 岸田劉生』
蔵屋美香 (著)『もっと知りたい岸田劉生 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 』
岸田劉生 (著), 酒井忠康 (編集)『摘録劉生日記』
この記事へのコメントはありません。