科学

「ロボトミー手術」3400回行った医師フリーマンとは?

経眼窩法(けいがんかほう)

「ロボトミー手術」3400回行った医師フリーマンとは?

頭蓋骨の頭頂部や側頭部に穴を開けるのではなく、すでに開いている「眼窩」という穴を利用、外科用アイスピックで上まぶたの裏に入れ、軸を鼻骨の隆起に平行し、頭の正中線より、やや外側に向けると、アイスピックの先端は眼窩の上端にあたる。軽くハンマーで叩くと先端は大抵眼窩の骨を付き抜ける。

20世紀に悪名を馳せた医師といえば、ナチスのヨゼフ・メンゲレ。そしてこの経眼窩法でロボトミー手術を行った「ウォルター・フリーマン」の名が挙がるに違いない。

「ロボトミー手術」3400回行った医師フリーマンとは?

※フリーマンとロボトミー手術

フリーマンが改良し世に広めた「ロボトミー」という手術は、その開発から70年、消滅から四半世紀を経てもなお、この上なく悪いイメージを持って焼き付いている。

映画『女優フランシス』『カッコーの巣の上で』と手術台に拘束され、医師に鋭い金属をまぶたから脳へと差し込まれるシーンや、反抗的な患者の魂と精神を押しつぶす為に行う冷酷で野蛮な処置の印象が強い。上記の手術は1930年代、ポルトガルの医師エガス・モニスが、リスボンで精神科患者に施した。

そのモニスの論文を基に、米国初の施術を行った二人の医師がいた。「ウォルター・フリーマン」とその相棒「ワッツ」である。

この手術こそが、何年も揺れ続ける精神医学界の騒動の口火を切るものだった。それから40年の間にアメリカだけで4万人の患者がロボトミーを受けたのである。そのうち3500例はフリーマンが執刀したものだった。

成功し退院していく患者もいれば、手術が失敗すればもとの症状が改善しないばかりか、深刻な無力症に陥ったり、痙攣を起したり、失禁したりといった新たな症状に苦しむ事になった。こうした変転の間、力強くロボトミーを推進したのが、フリーマンだった。

ウォルター・フリーマンという人物

「ロボトミー手術」3400回行った医師フリーマンとは?

※フリーマン

1895年11月フリーマンは七人兄弟の長男として生まれた。父親は自宅で開業医(耳鼻咽喉科)母コリーンの父親W・W・キーンは後の米国医師会会長にもなる人物であった。

祖父キーンは11もの「名誉学位」、ベルギーの冠勲章、フランスのレジオンドヌール勲章、ヘンリー・ジェイコブ・ビゲロー勲章と現役引退するまでに、多くの名誉勲章を受けている。少年時代のフリーマンは体が弱く、一歳の時に首の片方の肥大したリンパ筋を30か所 取り去る摘出手術を受け、その後もジフテリア・はしか・猩紅熱・百日咳・おたふく風邪・結膜炎と、こうした病気に次々と罹りながらも、成長していった。

祖父キーンに憧れを抱き、父は仕事への熱意が無い為に満足も成功も得られなかった負け犬と映ったのである。この祖父の「大きな功績と栄華」が後のフリーマンの人格成形に大きく影響していく。フリーマンは人付き合いもせず、独立独歩のやり方が身に染み付いていった。

成人したフリーマンは自身の事を「おそらく私の最大の欠点は何でも一人でしたがる事だろう。それでも私は満足している。一人でいるのが好きなのだ」と、語っている。

1912年の秋、フリーマンはイェール大学へ飛び級で入学するが、それがある意味幸運な形となる。その年に「第一次世界大戦」が起こったからである。

フリーマンの同級生達の多くはこの戦争で亡くなっていた。そして大学3年の終わりの時、再び病が彼を襲った「腸チフス」である。これをかわぎりにまた次々と病気に罹った。体力・体重・もろもろ衰えたフリーマンは4年の半分を自宅療養兼リハビリを虐げられた。しかし大学に戻った彼の学業に対する熱意は変わらず、それどころか「優」の成績を得た。

幸いな事に、フリーマンは若干20歳でイエール大学を卒業できた。

その後、シカゴ大学で夏期講座を二つ受け、その秋にペンシルヴァニア大学フィラデルフィア校にある医学校に入学した。フリーマンはすでに1年生の時から「神経系」に興味を示し「脳」への関心も高まった。1920年度末に医学校を卒業した時、フリーマンの成績はクラスで2番目だった。ペンシルヴェニア大学病院で、1921年の2月に「インターン」としてスタートする。

そしてフリーマンは急速に「神経病理学学者」としての才能を開花していった。彼自身気付いていない奇怪な「性癖」がこの頃から顏を出してきていたのだった。「頭蓋骨と硬膜を開いて生きている脳を見る事が、大きな満足である事」その奇怪で歪んだ人格としての実例がある。

若い男性が「ペニス」が大変な事になって病院に運び込まれてきた。真っ黒に腫れあがった「ペニス」には、リングがはまっていた。フリーマンはやすりでリングを切り、管子でねじり、患者を苦痛から解放する事に成功した。

フリーマンは『標本だから預かる』と言いつつ、リングを修理しフリーマン家の紋章を彫り、永遠に金の鎖を付け身に付けた。
そんな変癖を持つ彼だが、1936年から始めた「(術後の患者達の)追跡捜査」を、独自に行なっていた。

その後1957年、南部医師会の集まりで『前部前頭葉ロボトミー』500人の患者について、発表した。そして著書も書き上げる。

フリーマンの足跡

1924 エストニアの医学誌に論文投稿
1942年:11 ジョージタウン大学解剖学師・海軍医学教諭
1926年:秋 ジョージ・タウン大学神経学教授
1927年:1 アメリカ医学神経精神疾患会の事務長に選任
1931 アメリカ医師会神経精神疾患部の都会長に。

ジョージ・ワシントン大学正教授に。

1933 『神経病理学』出版

ジョージ・ワシントン大学教授に。

1935 第二回国際神経学会(ロンドンにて)
1937 インシュリン・カルジアゾールのショック療法を行う。
1938 電気けいれん療法を開始する。

侵入孔を側頭に変更。

1939 コペンハーゲンの第三回国際神経学会に参加。

日本で最初の前頭葉切除術

1940 ロボトミー記録映画の作成
1946 経眼窩ロボトミーを開始
1949 経眼窩ロボトミー公開手術ツアーを開始
1950 「精神疾患および難治性痛風の治療における精神外科」出版。

精神医学会で前部前頭葉ロボトミーの終了を宣言

ロボトミーの方向転換・アイスピックを片手に

フリーマンは、暇をみてはワシントンのガリンジャー市立病院の解剖室にこもって時間を過ごす様になる。長い間温めてきた施術に挑戦する為だった。

密かに病院を訪れる時、フリーマンは医療器具ではないアイスピックを手にしていた。第二次世界大戦後、公立病院には患者があふれかえっていた。しかも都合の悪い事に1948年末の時点で、アメリカ精神医学会の見積もりでは州立の施設に収容されている患者数は、適切に看護できる数の1・5倍に膨れ上がっていた。

そんな状況の中フリーマンは、その人達の為に自分にできる方法を考えていた。彼は悪癖だけでなく、自分が手術を行った患者を35年間追跡調査するほど、患者と医師の関係を大切にしていた。『安全でもっと広く使える新しい精神外科手術を作り出す』そんな野望を抱いていたのである。

眼窩については、数十年前、セント・エリザベス病院で研究室の責任者だった頃、眼窩の骨を通り抜けて遺体の脳に侵入する試みがあった。しかし、手元にあった脊椎穿刺針や穿刺カニューレを使うと、骨が砕けてしまった。そこで行き詰ったフリーマンには「細く、鋭く、丈夫な道具」が必要だった。そして自宅のキッチンで見つけた理想的な器具が、アイスピックだったのだ。

フリーマンにとって一番大きかったのは、しっかりとした医療施設の外でも容易に、迅速にロボトミーが行なえる事だった。

フリーマンの記述によると「軽くハンマーで叩くだけで先端は大抵眼窩の骨を突き抜けた。経眼窩法を使えば、精神病院の中で精神外科手術が容易に行えるようになる」と書き残している。

この方法は非常に単純で、外科の経験や資格のない医師も、診療所の中で滅菌布もなしに実施できると、フリーマンは考えたのである。

アイスピックを眼窩に突っ込まれても、死体は文句を言わない、だが勿論、実際の患者には麻酔を施す必要があった。そこでフリーマンは「電気けいれん療法(ECT)」の機械を使い無意識状態を作り出すやり方を選んだ。

しかしこの手法は大きな『難点』があった。

手術台に縛りつけられ、口の中に保護パットを入れられ脳に通電されると患者は痙攣し暴れてしまうのだった。

精神外科からの攻撃と薬物療法の躍進で

フリーマンは「全米の精神科医を訓練して経眼窩ロボトミーをさせる」という計画を告げた。外科的経験も資格もない精神科医が、出血・脳の損傷等、手術中の不測の事態にどうやって対応できる?と精神外科医達は批判した。

経眼窩ロボトミー」のデモンストレーションを各地で行うフリーマンであったが、医学の発展は目覚ましく1954年、連邦食品医薬品局は「クロルプロマジン」という新薬をアメリカでの使用を承認した。

この薬は、本当の意味での「抗精神薬」で製造元は化学的なロボトミーの様に患者を鎮めると宣伝した。ニューヨーク州立病院で使用される様になり、1年も経過しないうちに入院患者数が激変した。他の州にもこの薬は浸透していき発売されて1年の間に、200万人の『精神病患者』に処方された。

この「クロルプロマジン」をかわぎりに様々な「抗精神薬」の開発がなされ「ロボトミー」の影は薄くなっていった。そして精神医学会は前頭葉ロボトミーの終了を宣言した。

晩年のウォルター・フリーマンは、癌に侵され、前立腺摘出・ページェット病、そして人工肛門をつけ1972年に結腸癌で亡くなった。享年76歳であった。

最後の最後まで、自分が行なった一部の患者達と面談やカード・手紙のやり取りをしながら見守り続けた医師でもあった。彼は精神医学と神経学の研究に貢献はしたものの、ロボトミー手術を受けた患者の多くは障害が残ったり15%が死亡するなど、大きな傷跡も残した。

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