メソポタミアの先駆的都市国家
メソポタミア文明の都市国家は、世界で最も早い時期に成立した都市国家の一つです。
古代文明が生まれてから世界各地において、様々な都市国家が発達してきましたが、メソポタミア文明はシュメール時代(紀元前4000年紀)から、すでに都市国家を形成していました。
シュメールに続いたアッカド王国やバビロニア王国の中核を果たしたのも、多くの都市国家でした。
都市国家といえば多くの人が古代ギリシアのポリスをイメージします。しかし、メソポタミアの方が1000年以上も早い時期から、都市国家を発展させていたのです。
今回の記事では「メソポタミア文明と古代ギリシアの都市国家が形成された過程の違い」を見ていきます。
また、古代ギリシアで「民主政」が成立した理由も考えていきたいと思います。
メソポタミアの自然発生的な都市国家
メソポタミアでは、自然環境の変化に伴う人の集住化が都市形成の起点となり、そこから都市国家へと発展していきました。
したがって、都市国家が最初に形成されたのはメソポタミア文明であり、ギリシアよりはるかに古くから都市国家を確立した先駆的文明だったと言えます。
メソポタミアの都市国家は、乾燥化に伴う水資源の確保を目的とする人々の自発的な集住化によって、自然発生的に形成されました。
一方のギリシアでは初期ミケーネ時代、王国が形成されて「ヴァナカ」という王を頂点とするピラミッド型の支配構造ができました。
しかし、紀元前12世紀頃「海の民」による侵入で、王国は崩壊。部族社会を経て都市国家ポリスが成立しました。
ギリシアの王国からポリスへ
メソポタミアは自然発生的な都市国家の形成であるのに対して、ギリシアは王国からの変遷を経てポリス(都市国家)が成立したという違いがあります。
両者の違いは「民衆との距離感」でした。
ギリシアのポリスが王国崩壊後に成立した理由は、前述した通りギリシアにはミケーネ時代から王権が存在したものの、紀元前12世紀に「海の民」の襲撃によって王権が崩壊し、群雄割拠の時代を迎えたことにあります。
王権が崩壊したあとは新たな秩序が必要となり、有力者が台頭してポリスを形成します。ポリスを継続させるためには、民衆の支持を取り付ける開放的な体制が必要不可欠でした。
こうした背景からギリシアの新たな支配者は、王権と一線を画して民衆と密接な関係を構築せざるを得なかったのです。
一方、メソポタミアの都市国家で君臨した支配者が民衆から隔絶した理由は、メソポタミアの都市が自然発生的に形成されたこと、また王権の連続性が保たれて歴史的断絶がなかったことにあります。
有力者が次々と台頭したものの、古代オリエントの王権観が根強く残存し、支配者は神聖視されていました。
明確な王権崩壊と建て直しを経験していないメソポタミアにおいて、支配者は強大な権力を保持し、民衆は別世界の存在と考えられたため隔絶が生じたのです。
このように都市国家の成立過程における違いが、支配者と民衆の政治的関係の違いを生み出しました。
ギリシアのポリスの方が民主的な色彩が強く、メソポタミアの都市国家の方が支配者に権力が集中する傾向があったのは、それぞれの成り立ちの違いに起因していると考えられます。
アテネ民主政の限界
古代ギリシアのポリスでは、リーダーであるバシレウスと民衆との距離が近かったため次第に民衆の発言力が強まり、世界で初めて「民主政」が誕生しました。
しかしながら古代ギリシアの歴史全体を見渡すと、民主政はアテネなどごく一部のポリスに限られており、むしろギリシアに存在した多くのポリスでは、僭主政や寡頭政が主流でした。
ギリシアにおける民主政は部分的なものであり、アテネを中心とした限定的なものであったと言えるでしょう。
クレイステネスの改革によって、アテネでは制度としての民主政が整備されましたが、当初は民衆自身に民主政への自覚は乏しかった状況でした。
しかしペルシア戦争における「サラミスの海戦」で、民衆も戦争に直接参加することになります。この戦争経験が「自分たちも国政に対して発言権があるはずだ」という民衆の自覚を高める結果につながりました。
このように制度面での整備と戦争経験が重なり、アテネの民主政が本格的に機能するようになったのです。
アテネにおける民主政の成立過程を見ると、制度面の整備だけではなく、民衆の意識変化が必要な要素であることが分かります。
指導者ペリクレス時代はアテネ民主政の全盛期であり、民主政が最も機能した時期でした。
しかし、その全盛期もおよそ100〜150年程度と長くは続かず、アテネの民主政はマケドニアの台頭によって終焉を迎えます。
ギリシアにある他のポリスでは、僭主政が長期にわたって続きました。
したがってギリシア全体を見渡すと、アテネの民主政は一時期の出来事に過ぎず、むしろ僭主政の方が長く続いたと言えます。
ペリクレス時代のアテネは民主政の全盛期ではありましたが、ギリシア全体の歴史から見れば例外的で、短期間の出来事であったと位置づけられるでしょう。
ギリシア民主政の現代的意義
古代ギリシアでは早い時期からオリンピア祭典などの競技会が開催され、競技を通じた個人の力による競い合いが活発に行われました。
また自然科学の発展によって論理的思考が生まれ、言論の競い合いにも熱心でした。
この競技と思考の両面が、ギリシア人の競争心と開放的な政治参加の意識を育み、ギリシア独自の民主政の基盤が形成されることになりました。
ギリシアのポリスはアテネでさえも、最大で30万人程度と小規模な都市国家です。
民主政が機能するには、数万人程度の人口規模が適していたと考えられます。ギリシアの小規模なポリスは、民主政が成立しやすい最適な環境だといえるでしょう。
ギリシアで生まれた民主政の理念と実践は、現代の民主主義社会にも大きな影響を与えています。
参政権の拡大や表現の自由など、今日の民主的要素の多くがギリシア民主政を起源としているのです。
小規模ながら開放的だった古代ギリシアのポリスが、民主政を実現した歴史は現代にもつながる大きな意義を持っていると言えるでしょう。
参考文献:本村凌二(2016)『教養としての「世界史」の読み方』PHP研究所
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