今から2,200年前、七つの国が覇を競う中国を初めて統一した人物が現れた。
秦の始皇帝である。
史上初めて「皇帝」を名乗り、今にいたる巨大国家「中国」の礎を築いた始皇帝。しかし、その権勢の絶頂期には早くも崩壊の足音が忍び寄っていた。
巨大事業が国民の不満を募らせ、弾圧が怒りに変わる。非情なる君主の真の姿は、近年になり少しずつ見えてきたばかりなのだ。
皇帝から神へ
※始皇帝
圧倒的な軍事力と緻密な統制力を背景に天下を統一した「秦(しん)」。紀元前221年のことである。
2年後、始皇帝は征服した諸国を自ら巡る、初めての全国巡行に出発した。中国北西部にある秦の都「咸陽(かんよう)」から東に向かい、山東省「泰山(たいざん)」に向かう。泰山は古来より不老長寿を願う人々に崇められてきた霊峰である。
ここで始皇帝は「封禅(ほうぜん)」という儀式を行った。偉大な王にのみ許された儀式であり、ここで始皇帝は自らを神であると宣言し、その治世が永劫に続くよう願ったといわれている。その後、さらに東へ進んだ始皇帝は、41歳にして初めて海を見た。中国全土を統一した始皇帝も、雄大な大海原を前にして、その果てにまでは力が及ばないことを痛感したのだろう。
そして、ここで「徐福(じょふく)」という男と出会う。
徐福は始皇帝に「財宝と引き換えに不老不死の薬を手に入れてみせましょう」と申し出た。当時の寿命では老境に差し掛かっていた始皇帝は、この徐福に財宝を与え、薬を探すよう命じる。この徐福は、肉体の不滅を説く思想を持ち、加持祈祷、医学、薬学をもって、不老不死を目指す「神仙術(しんせんじゅつ)」の使い手であり、そうしたものは「方士(ほうし)」と呼ばれていた。
後に中国に広まった道教も、この神仙術に起源を持つものである。
徐福との出会いにより、始皇帝は宮廷に次々と方士を召抱え、不老不死を目指すこととなる。
神をも恐れぬ始皇帝の権力
絶大な権力を持ち、自らを神と称した始皇帝も、死の影が見え始めたことから徐々に冷静な判断力を失っていった。
巡行は南へと進み、湖南省にある霊山「湘山(しょうざん)」に立ち寄ろうとしたが、嵐により長江が荒れたことでこれを断念する。
荒れ狂う長江を前にした始皇帝は「この嵐は湘山に祀られた神の仕業に違いない」として激怒、湘山の木をすべて切り倒させた。当時、赤は罪人が身にまとう色であり、赤土の露出した湘山は「罪人の山」と化した。
神をも恐れぬ傲慢な振舞いに、住民たちは始皇帝に対して深い恨みを抱くようになる。
紀元前215年、不老不死の薬を探すよう命じられていた方士の一人がある預言書を王宮に持ち帰ってきた。その一節が始皇帝の目を釘付けにする。
「秦を滅ぼす者は胡なり」。
胡(こ)とは、北方の異民族である「匈奴(きょうど)」のことであった。匈奴の侵攻を恐れた始皇帝は、臣下の制止も聞かずに北方へ軍を派遣するための「直道(ちょくどう)」を全長900kmにもわたり造らせたのである。
そして、この直道を使い、30万もの軍隊が北方に派遣され、その前線は最大で現在の内モンゴル自治区にまで及んだという。
民を苦しめた巨大建築
秦の時代に作られた「万里の長城」が今も残っている。
今、我々が思い描く万里の長城といえば、レンガ造りの立派なものだが、これは北京近郊にある「八達嶺(はったつれい)」など、後の民の時代に増改築されたもので、秦の時代は土を固めたり、石を積み上げただけのものであった。
【※敦煌にある前漢の長城】
秦の時代、長城の建設には300万もの人民が駆り出されたといい、それは秦の人口の15%にも及んだ。
そして、長城と並ぶ始皇帝の巨大建築事業が「始皇帝陵(しこうていりょう)」の建設である。始皇帝の墓である始皇帝陵は、彼が13歳の時から造りはじめ、40年の歳月をかけて完成した権力の象徴であり、中国皇帝の陵墓としては最大のものである。造営当時は今よりも一回り大きく、高さは87m、二重の城壁に守られ、建設には70万人が動員された。
そして、始皇帝陵の西側からはおびただしい数の人骨も発見されている。労役に駆り出され、命を落とした者達のものだ。記録には、農民は畑仕事も出来ないほど酷使されていたといい、次々と巨大建築を造らされることで国力は弱まり、人々の不満が溜まっていったのだ。
秦の国はほころびを見せ始めたのである。
始皇帝の暴走
秦が中国を統一できた理由のひとつに、生まれや身分に捉われない人材の登用があった。
始皇帝は、法に明るい官僚「法吏(ほうり)」、薬学に詳しい「方士(ほうし)」そして、孔子にその教えを求め、伝統を尊ぶ学者「儒生(じゅせい)」と呼ばれる3つの集団を抱え、それぞれの意見を聞きながら政治を行っていた。
紀元前213年、始皇帝47歳を祝う宴の席。ここで法吏と儒生の権力争いが表面化してしまう。
「法による中央集権が始皇帝の中国統一を成し遂げた」という法吏に対し、儒生は「始皇帝の偉業は過去に学びを求めたからこそ」といい、法吏は「今の世から目をそらし、伝統ばかりを振りかざす儒生こそ人の心を惑わす輩」と強くこれに反論、儒生の知識の拠り所となる書物は焼き捨てるべきで、儒生をも殺すようにとまで始皇帝の前で言い放った。
始皇帝が聞き入れたのは法吏の意見であった。これが「焚書(ふんしょ)」という大規模な書物焼却の引き金になり、政治判断のバランスが崩れ始める。やがて、その弾圧はいつまでも不老不死の薬を見つけ出せない方士にも向けられた。
始皇帝は儒生と方士を生き埋めにする「坑儒(こうじゅ)」を行い、次々粛清を断行。自分に都合のよいことをいう者ばかりをそばに置き、始皇帝の暴走を止めるものは誰一人いなくなってしまった。
秦王朝の滅亡
49歳になり、ますます死を恐れるようになった始皇帝は、紀元前210年、最後の巡行に出発する。それは自ら不老不死の薬を追い求める旅でもあった。
しかし、この旅の途中、始皇帝は病に倒れる。
同年、初めて中国を統一した稀代のカリスマは50歳にしてその生涯を閉じたのだった。
【※西安市にある始皇帝と臣下らの現代彫刻】
都、咸陽(かんよう)からはるか遠い地で息を引き取った始皇帝。しかし、巡行の途中で始皇帝は長男「扶蘇(ふそ)」を後継者とする遺書を残していたが、始皇帝の臨終に立ち会った三男「胡亥(こがい)」ら3人しかいなかった。権力を握る絶好の機会を前に、胡亥は遺書を握りつぶし、匈奴との最前線に赴いていた扶蘇には、匈奴を一掃出来ないことへの始皇帝の怒りを綴った偽の詔書を送り、自害に追い込んだ。
胡亥は、始皇帝の葬儀を取り仕切り、自らが皇帝の後継者であることを示したのだった。
しかし、胡亥は始皇帝以上に独裁的であり、官僚、大臣、そして肉親までもことごとく処刑してゆく。一方で始皇帝の死が各地に知れ渡ると、民衆の大規模な反乱が勃発。秦の圧政に苦しめられていた民衆は軍を創設するまでになり、咸陽へと迫った。秦は始皇帝の名の下に、危ういバランスでまとまっていたことがよく分かる。
そして、紀元前206年12月、咸陽の宮殿に火が放たれた。統一からわずか15年、秦王朝はここに滅亡したのである。
最後に
秦の滅亡後、権力を握ったのは反乱軍のリーダーのひとりである「劉邦(りゅうほう)」だった。
劉邦は、漢王朝を打ち立て、都を西安に定める。漢は秦の統治を手本としながらも、厳格すぎる法律や圧政を見直し、より柔軟な統治を行った。
秦を反面教師とした漢王朝は、その後400年も続くこととなったのだ。
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