明朝の皇帝たち
明朝は、漢族が興した最後の封建王朝である。
1368年から1644年の276年間統治し、16名の皇帝が立てられた。
明朝の時代に学問、科学、文化などが大きく発展したとされている。
景徳鎮(今の江西省東北部に位置する都市)の陶磁器は、明朝の時代に当時の磁器生産の世界トップクラスの水準にまで達し、皇族のための磁器を生産する最も重要な地域となっていった。
そして明朝は、1405年から1433年にかけて七度の大規模な遠洋航海を行った。
その航海はアジア地区を越え、インド大陸を越え、アラブ半島までに及んだという。
240隻を超える船を出港させ、2万7400人という乗組員を乗せて、30余りの国や地域を訪問した。
7度の航海で7万海里以上旅をし、その全長は地球を三周することのできるほどの距離であり、かなり大規模な航海であったことがわかる。
そんな明朝には、奇想天外な皇帝が存在したという。その中の幾人かを紹介しよう。
猜疑心が強すぎた皇帝
まずは明朝を立てた皇帝 洪武帝 である。
彼は、低い身分からの成り上がりという背景もあって、庶民の風格を残していた。
国の大切な文章を庶民でも理解できる言葉で記すなど、庶民に理解のある皇帝だった。
その反面、学歴者や官僚に対してコンプレックスを抱いており、高い位の者を処罰する際は引きずり出して叩き打ち、辱めたという。
洪武帝は猜疑心の強い人物で、朝廷内に秘密裏に活動する機関を設けた。
家で迂闊に皇帝の悪口を言おうものなら、潜んで聞いていた隠密が報告するのである。
「文字の獄」と呼ばれる粛清を行ったことでも有名である。文章の中に皇帝を批判する言葉や文字が含まれていた場合、即刻処罰した。
その多くが皇帝の「考えすぎ」であったとされ、文字の獄によって少なく見積もっても10万人が処刑されたという。
皇帝と大工を兼務
次は、明朝最後の皇帝 天啓帝(てんけいてい) だ。
天啓帝は父が暗殺されたことで皇帝の座に着いたのだが、実際は彼の乳母「客氏」の愛人「魏忠賢」が実権を握っていた。
先代二代の皇帝も良い家来を残しておらず、本人も皇帝に必要な教育さえ受けていなかったので、多くの国事を魏忠賢にまかせていた。
そんなわけで天啓帝は自分の趣味に没頭した。
彼は木器に興味があり自ら手を動かして製作に励んだ。家具を作ったり化粧箱に美しい花の模様をあしらえたりと、芸術的な才能を見せたのである。
その興味は建築の分野にもわたり、宮殿のいくつかの工程に参加した。
とはいえ皇帝には国の大きな決定をする役目がある。
しかし代理の魏忠賢が政治案件を持っていっても「わかった。君の言う通りにしたらよろしい」としか答えないのであった。
かなりお気楽な皇帝である。
怠惰で30年姿を現さなかった皇帝
万暦帝(ばんれきてい)は、10歳という若さで皇帝になった。
幼い時は、母と父親の様な存在の張居正に厳しく育てられた。
ところが張居正が病死すると、押さえつけられていた期間の鬱憤をはらすように一転して怠惰になってしまった。
体調不良を理由に引きこもってしまい、なんと30年も住まいを出す国事に携わることもなかった。
古代版、いや皇帝版ニートである。
しかし興味深いことに、このニート皇帝は明朝で最も長い48年間、皇帝として即位したのである。
この万暦帝には後の逸話がある。
1956年、考古学者が万暦帝の墓を調査し、彼の棺を開けてその遺骨を復元した。
その遺骨はなんと、両足の長さが明らかに違っており右足は著しく曲がっていたという。
これは生前に足の筋肉が萎縮しており、歩行がかなり困難であった事を物語っていた。
おそらく、晩年は相当の痛みを伴っていたであろうことが推測される。
少なくとも晩年、表舞台に出なかったのは本当に体調不良だった可能性があるという。
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