幕末明治

尾高惇忠と富岡製糸場 前編 「渋沢栄一の従兄弟で義兄で学問の師」

尾高惇忠とは

尾高惇忠と富岡製糸場

画像 : 尾高惇忠 wiki public domain

今からおよそ150年前の明治5年10月、日本近代化の象徴とも言える工場が操業を開始した。

その工場は現在の群馬県富岡市にある、2014年に世界遺産に登録された 富岡製糸場(とみおかせいしじょう)である。

尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は、富岡製糸場の初代場長となった人物である。

およそ5万5,000㎡という広大な敷地に建てられたこの工場は、当時世界最大規模を誇る器械製糸工場であった。

明治政府の一大国家プロジェクトであった富岡製糸場の建設を指揮し、初代場長となった尾高惇忠は「近代日本経済の父」と称されている渋沢栄一の従兄弟で、惇忠の妹・千代は栄一の最初の妻であることから義理の兄でもあり、幼い頃から栄一の学問の師でもあった。

尾高惇忠はなぜ明治という新しい時代に、官営の西洋式器械製糸場の建設に携わることになったのだろうか?

今回は、尾高惇忠と富岡製糸場について前編と後編にわたって解説する。

官営の製糸場建設

江戸時代から明治へと時代が変わり急速な近代化が推し進められる中、明治3年2月に明治政府は官営の器械製糸工場の建設を決定する。
当時、日本で最大の輸出品は「生糸」だったのである。

政府はそれまで手作業で行われていた生糸作りを器械化すれば、生産量と品質が向上して外貨の獲得向上を目指すことができると考えた。その近代化工場のモデルケースとして官営の器械製糸場を建設することになったのである。

その工場建設の現場責任者となったのが尾高惇忠だった。

惇忠の出自

尾高惇忠と富岡製糸場

画像 : 尾高惇忠の生家 wiki c

惇忠は、文政13年/天保元年(1830年)武蔵国下手計村(現在の埼玉県深谷市)の名主・尾高勝五郎保孝の長男として生まれた。
尾高家は農業の他に、米・塩・菜種油などの日用品と藍を固めた染料・藍玉の加工販売も手掛けていた。

惇忠は幼い頃から学問に秀でて商売にも熱心で、わずか17歳で私塾「尾高塾」を開き、近隣の子供たちに論語を始め多くの学問を授けた。
その私塾の教え子の中にいたのが渋沢栄一である。栄一は惇忠の母方の従兄弟でわずか7歳であった。

後年、栄一は「惇忠ありてこそ、栄一あり」とまで語っている。

惇忠の塾に掲げられていた言葉は「知行合一」であった。

知識と行為は一体であり、学び得た知識は実際の行動を伴わなければならないという意味で、惇忠は生涯「知行合一」の信念を貫いたという。

大抜擢

明治3年41歳になっていた惇忠は、郷里の深谷周辺で起きた「備前堀事件」を解決した。

惇忠の家の近くに備前堀という人工の用水路があったが、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火で利根川から土砂が流れ込んで埋まってしまっていた。

利根川の洪水・氾濫が度々起きていたことから、備前堀に代わる新用水路が作られることになった。しかしそこは惇忠らの住んでいる所から遠い場所であり、その役所の決定に備前堀を利用していた農民たちは「それでは水が引けなくなる」と反対した。

それを知った惇忠は備前堀がいかに地域に必要なのかを説き、農民たちが修繕費などを負担すれば従来の備前堀で問題はないと明治政府に提訴し、新用水路の建設を中止させたのである。

その後、惇忠の理路整然とした訴状を読んだ政府・民部省の役人が「このような人材を民間に置くのは国家の利益ではない」と、惇忠を民部省に登用した。

尾高惇忠と富岡製糸場

画像 : 渋沢栄一 wiki c

そんな惇忠に大きな仕事を任せようと目を付けていた人物が、惇忠より先にその能力を買われ、民部省の役人となっていた従兄弟の渋沢栄一であった。

実は当時、栄一は製糸工場の建設計画を任されていて、現場の責任者を誰にするか思い悩んでいたのである。
惇忠が民部省に入省したことで、栄一は「兄じゃ(惇忠)は養蚕に詳しい」ということを思い出したのだ。

惇忠は叔父である渋沢宗助が手掛けていた「養蚕手引抄」という蚕(カイコ)の育成書を出版する手伝いをしていたため、生糸に欠かせない養蚕の知識を得ていた。

そこで製糸場建設という一大国家的プロジェクトを任されていた栄一は、能力に優れ養蚕の知識があった惇忠を現場責任者に大抜擢したのである。

建設現場の選定

現場指揮という大役を任された惇忠は、すぐに建設用地の選定に動き出した。

尾高惇忠と富岡製糸場

画像 : ポール・ブリューナ wiki c

惇忠は、栄一らがお雇い外国人として向かい入れたフランス人技師のポール・ブリューナを伴って、養蚕の盛んな長野県・群馬県・埼玉県を調査した。

そして選んだのが上野国富岡(現在の群馬県富岡市)であった。

富岡を選んだ理由は以下とされる。

①:この周辺は養蚕が盛んで繭の調達が容易であったこと。
②:土質が悪く農業には不向きな土地だが工場建設に必要な広い土地が用意でき、しかも約5万5,000㎡の土地を1,210両、現在の価値で約1億2,000万円という安い額で買い上げることができたこと。
③:製糸工場に必要な大量の工業用水の確保ができたこと。
④:器械を動かす蒸気機関の燃料である石炭採掘場が近場にあり、容易に調達ができたこと。
⑤:富岡の全町民が建設に同意し、たまたま代官屋敷の建設予定地として確保してあった土地が公有地として残され、それを工場用地の一部に充てられること。

これらの要件が考慮され、富岡が建設地に決定した。

そして惇忠は建設のため、いよいよ現地に入るのである。

関連記事 : 尾高惇忠と富岡製糸場 後編 「集まらない女工と経営の苦労」

 

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