西洋史

【自殺か暗殺か?】オーストリア帝国の皇太子ルドルフの儚い生涯「うたかたの恋」

その美しさと悲劇的な最期で知られるオーストリア帝国の皇后エリザベートは、夫フランツ・ヨーゼフ1世との間に3人の娘と1人の息子、ルドルフを授かった。

しかし、皇太子ルドルフは、「マイヤーリンク事件」と呼ばれる事件で30歳の生涯を閉じる。

その死が多くの作品の題材になっただけではなく「サラエボ事件」の遠因にもなった、皇太子ルドルフの生涯について調べてみた。

帝国の後継者として厳しい教育を受ける

皇太子ルドルフ

※幼少期のルドルフ。Wikiより引用(出典)

オーストリア帝国の皇太子ルドルフは、1858年8月21日に、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベートの長男として生を受けた。

皇太子ルドルフの養育を担ったのは、ルドルフの祖母ゾフィー大公妃であった。彼女は当時のウィーン宮廷の実質的な支配者で、皇帝も母親には頭が上がらなかったのである。また、皇后エリザベートはウィーンの宮廷に馴染めず、姑との折り合いも悪かった。彼女は第一子ゾフィーの死(1857年のハンガリー滞在中に病死)に責任を感じており、子どもの養育に口を挟もうとはしなかった。

フランツ・ヨーゼフ1世は、産まれたばかりのルドルフに陸軍大佐の階級を与えた。病弱な皇太子を強靱な軍人に育て上げるために、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とゾフィー大公妃は、軍人のレオポルド・ゴンドクレール伯爵をルドルフの教官に任命した。

ゴンドクレール伯爵は日常的に体罰を行っていた上に、ある時はルドルフの就寝中に枕元で発砲し、またある時には彼に猪をけしかけた。見かねた副教官のヨーゼフ・ラトゥール・フォン・トゥルンベルク大佐は、皇太子が心身ともに痛めつけられていることを皇后エリザベートに訴えた。

皇后エリザベートは夫と姑に抵抗し、公文書を発行して息子の教育に関する権利を奪い返した。それは彼女が息子に示した、数少ない母親らしい行動だった。

彼女は産まれてすぐに引き離された息子に深い愛情を持つことはできなかった上に、宮廷行事に参加することも少なく、旅行三昧の日々を送っていた。皇太子ルドルフは厳しい教育から解放されたものの、母親の愛情を得ることはできなかったのである。

皇太子ルドルフが精神的に不安定な人間に育ったのは、幼少期の体験が原因なのかもしれない。

父 フランツ・ヨーゼフ1世との対立

皇太子ルドルフ

ルドルフ皇太子(1887年)

皇后エリザベートに皇太子ルドルフの窮状を訴えたラトゥール大佐は、解任されたゴンドクレール伯爵に代わって皇太子の教育を任されることになった。ラトゥール大佐は自由主義思想の持ち主で、自由主義思想に関係する人間を皇太子の教育係に抜擢した。

教育係や、彼らに引き合わされた人物の影響を受けた皇太子ルドルフは自由主義思想の持ち主となり、庶民の娯楽の場であるホイリゲ(自家製ワインを販売している酒場)に足を運び、民族音楽に耳を傾けた。

彼は市民から人気を集めたものの、個人の自由を優先する自由主義思想は、多くの領地と民族を支配するオーストリア帝国の政治体制とは相容れないものだった。

1867年にオーストリアとハンガリーが同一の君主を持つ二重帝国 (アウスグライヒ)を成立させたように、フランツ・ヨーゼフ1世は現実と折り合いをつけながら、多民族国家を統治してきた。政治経験豊富で保守的な父と、理想を掲げる息子は次第に対立を深めていく。

未だに謎が残る「マイヤーリンク事件」

皇太子ルドルフはベルギー王女ステファニーを妻に迎えたが、夫婦の仲は冷え切っており、皇太子はローマ教皇レオ13世に離婚の許可を求めている(カトリックは離婚を認めていないため、この申し出は却下された)。結婚前から女遊びが激しかった皇太子ルドルフは、ミッツィ・カスパルという女優と愛人関係にあった。

1888年の夏に、皇太子ルドルフはミッツィに心中を持ちかける。ミッツィがウィーン警察長官のフランツ・クラウス男爵に通報したため、皇太子の周囲には厳重な警備が敷かれた。この年の12月に入っても皇太子は不安定な精神状態にあり、久しぶりに顔を合わせた母エリザベートにすがりついて涙したという。

年が明けると、皇太子ルドルフの精神を追い詰める事件が起きた。父親との激しい口論の末に、皇太子は「後継者として不適格」という烙印を捺されたのである。

皇太子ルドルフ

Rudolph_&_mary

1889年1月28日に、皇太子ルドルフはミッツィの元を訪れた。その後、彼は愛人の一人であるマリー・フォン・ヴェッツェラを連れ、ウィーン郊外のマイヤーリンクに向かう。彼が所有する狩猟館から銃声が響いたのは、1月30日のことだった。

鍵が掛けられていた扉を斧で壊して部屋に入った執事は、皇太子ルドルフとマリーの血まみれの死体を発見したという。2人はベッドに横たわっており、側に拳銃が置かれていたことから、その死は心中と考えられた。

身分違いの恋(マリーは男爵令嬢)を悲観して、2人は死を選んだとされている。しかし、皇太子ルドルフとマリーが初めて出会ったのは1888年4月のことで、1889年の1月には既に2人の関係は終わっていたという説もあれば、マリーが妊娠していたという説もある。

2015年には、マリーが母親に宛てた遺書が銀行の貸金庫から発見されている。彼女は「この愛には抗えない。生きているよりも、死んだ方が幸せ」と書き残しているが、事件当時17歳の少女に過ぎなかったマリーは、ミッツィの代わりに皇太子ルドルフの道連れにされただけなのかもしれない。

1930年にフランスの作家クロード・アネはこの事件を題材にした小説「うたかたの恋」を発表した。
皇太子ルドルフ

この小説は映画や演劇の原作となったが、1983年にオーストリア=ハンガリー二重帝国最後の皇妃ツィタは、皇太子ルドルフは暗殺されたが、第一次世界大戦によって事件が迷宮入りしたとウィーンの新聞社に語っている。

皇太子ルドルフの遺体からは右手首が切り取られており、現場となった部屋には激しく争った跡もあったが、真相は不明である。

マリーは遺書に「皇太子の隣に埋葬して欲しい」と書き残したが、その願いは果たされず、ハイリゲンクロイツの修道院に埋葬された。彼女の墓は第二次世界大戦中に荒らされた上に、1992年には「マイヤーリンク事件」の真相を調べようとした人間の手で、棺ごと掘り返された。

彼女の遺体は1993年に墓地に埋め戻されたが、一部が損失していたために、事件の解明にはつながらなかったという。

優れた学者だった皇太子ルドルフ

皇太子ルドルフは語学堪能で、優れた頭脳の持ち主であった。特に鳥類に関しては深い知識を持っており、12歳の時には鷹狩りに関する100ページもの論文を執筆している。

ヨーロッパだけではなく、エジプトやパレスチナにも調査旅行に出かけ、多くの論文や紀行文を著した皇太子ルドルフは、1884年にウィーンで開催された「第1回国際鳥類学会議」の後援を行っている。

帝国の文化や歴史をまとめた全24巻の事典「言葉と絵でみるオーストリア= ハンガリー帝国」は、1885年に第1巻が刊行されたが、皇太子ルドルフは編纂を担当していただけではなく、序文も記している。事典を献上されたフランツ・ヨーゼフ1世は、「息子がこれを書いたのか」と驚いたという。

ルドルフは死の直前である1889年1月26日にも、この事典の編纂に関する手紙を編集社に送っている。彼の死後は妻ステファニーが援助を行い、1902年に刊行が終了した。

鳥類に詳しいだけではなく、地理学の学位も有していた皇太子ルドルフは、多くの標本や鉱物をコレクションしていた。

彼の死後、膨大なコレクションはウィーンの自然史博物館に遺贈された。

フランツ・ヨーゼフ1世には不幸が続いた

皇太子ルドルフ

※1853年に描かれたフランツ・ヨーゼフ1世皇帝の肖像。wikiより引用(出典)

皇太子ルドルフは、妻ステファニーとの間にエリーザベトという娘を授かったが、女性であるために帝国の後継者にはなれなかった。

また、ルドルフは女遊びが原因で患った性病を妻にも感染させ、妊娠できない体にしている。病気を苦に、彼が死を考えるようになったという説があるが、性病に関しては自業自得という気がしないでもない。

息子の苦しみに気づけなかったことを後悔し、いつしか自らも死を願うようになった皇后エリザベートが旅行先で無政府主義者に殺害されたのは、1898年のことだった。

妻の死を知ったフランツ・ヨーゼフ1世は、深く悲しんだという。

妻子に続き、フランツ・ヨーゼフ1世は帝国の後継者を失った。1896年に皇位後継者を指名されたフランツ・フエルディナント大公は皇帝(弟カール・ルートヴィッヒの息子)の甥で、政治的思想や結婚問題が原因で、フランツ・ヨーゼフ1世と対立していたが、1914年に妻ゾフィーとともに暗殺される(サラエボ事件)。

この事件によって第一次世界大戦が勃発し、フランツ・ヨーゼフ1世は大戦中の1916年に肺炎で死亡した。

フランツ・ヨーゼフ1世と妻のエリザベート、皇太子ルドルフの亡骸は、ウィーンのカプツィーナー教会の地下に埋葬されている。

【参考文献&サイト】
「うたかたの恋」皇太子ルドルフのサンゴ オーストリア=ハプスブルク帝国と海洋
http://www.afpbb.com/articles/-/3056197

 

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まりもも

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