西洋史

テルモピュライの戦いとスパルタ兵について調べてみた

ギリシア世界がまだひとつの国家にまとまっておらず、いくつかの都市国家により世界を構成していた時代。
遠くペルシアの地から大軍勢が侵攻してくる。しかし、それに最後まで徹底抗戦したのはわずかなギリシア人たちだった。

ペルシア軍侵攻

スパルタ
※アケメネス朝の最大版図

紀元前480年、アケメネス朝ペルシアの王クセルクセス1世は、10万といわれる陸上兵力と軍船と輸送船合わせて1000隻を超える艦艇を自ら率いて、ギリシアへと侵攻した。
クセルクセス1世は、紀元前331年にアレキサンダー大王との戦いに敗れたダレイオス3世より8代前のアケメネス朝の王である。

ペルシアの支配に反乱を企てたアナトリア(現トルコ)の南西部、イオニアのギリシア人ポリス(都市国家)を、ギリシア本土のアテナイが支援したことを契機に始まった「ペルシア戦争」における、三度目のペルシア軍の侵攻であった。

これに対しギリシア軍は多くのポリスが連合し、ペルシアの侵攻に立ち向かうことを決定する。しかし、ギリシアの各ポリスの兵力を連合したとしても、なおペルシア軍は数では圧倒的に優勢であった。

そこでギリシア連合軍は、海上では狭い海峡で、陸上では狭い地峡ぶでペルシア軍を迎え撃つ作戦を立てた。

スパルタ 兵の奮闘


※テルモピュライの戦いでのレオニダス

ギリシア軍が陸上での迎撃に選んだ地峡は、テルモピュライだった。テルモピュライとは「熱い門」を意味し、標高1000m級の山の連なりが海岸線近くまで張り出しており、山と海岸に挟まれた狭い崖道が唯一の通行路である。

ここの防衛を任させたのはスパルタ兵300を中心とした連合軍が約7000、指揮官はスパルタ王レオニダス1世であった。スパルタもギリシアのポリスのひとつであり、ポリス市民には義務として軍役が課せられていた。戦争となれば鎧兜に身を包み、長槍と盾を手に戦う。その古代ギリシア世界最強の重装歩兵軍の軍事的教育制度は、「スパルタ教育」としても知られている。

ついにテルモピュライに到達したペルシア軍は、歩兵も騎兵も精強をもって知られていた。しかし、大軍の優位を活かせない狭い道での戦闘を避けたいペルシア軍は、大兵力に威圧されて連合軍が撤退するのを期待し、4日間動かなかった。だが、レオニダス1世率いる連合軍が撤退しないことを知ったクセルクセスは、5日目に攻撃命令を下す。

かくして、連合軍の防衛線に攻めかかったペルシア軍だったが、狭い道を塞ぐギリシア重装歩兵の隊列は強固で、かえって手痛い損害を蒙ってしまう。特にレオニダスとスパルタ兵の奮戦は際立っており、彼らは攻撃を受けると逃げるふりをして、敵が列を乱して追跡してくるのを見て取るや、反転して逆襲するという戦術でペルシア兵を翻弄した。

戦況の変化


※現在のテルモピュライに聳え立つレオニダスとスパルタ兵の記念碑

業を煮やしたクセルクセスは、王の親衛隊「不死隊」を投入する。一万の兵からなるペルシア軍の中でもエリート部隊であったが、それでも盾を並べ長槍を突き出すギリシア重装歩兵の堅陣を崩すことはできず、後退を余儀なくされてしまった。

6日目も攻撃は続行されたが、レオニダス率いる連合軍はやはり崩れず、ペルシア軍の損害だけが増えるばかりだった。

ところがその夜、戦況を覆す事件が起こる。恩賞目当ての一人のギリシア人がペルシア陣営に駆け込み、連合軍の後方に通じる抜け道の存在を教えたのである。直ちに別働隊が編成され抜け道へと送り出された。この道を防衛していた連合の軍勢1000は、ペルシア軍を発見すると、これに対峙すべく山頂に登って防備を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して抜け道を駆け降り、夜のうちに連合軍の背後に回りこむことに成功したのだった。

300対10万


※レオニダス王として伝わる重装歩兵の大理石像(前5世紀)

7日目の朝、後方に敵の姿を見たレオニダス王は、自分たちが挟み撃ちの危険にさらされていることを知った。

レオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍はそれぞれが防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人と王に従うことを決めた約1000の兵が踏みとどまり、数に勝る敵に最後の戦いを挑む。

クセルクセスは、スパルタ軍に投降を呼び掛けるが、レオニダスの答えは「モーロン・ラベ(来たりて取れ/この首が欲しければ戦って取れ)」であった。

退くことを知らないスパルタの兵に対して、クセルクセスは午前10時頃に全軍の進撃を指示。レオニダス率いるギリシア軍もこれに対して前進を始めた。スパルタの重装歩兵は槍が折れれば剣で、剣が折れれば素手で、さらには噛み付いて、レオニダスとともに前後から迫る敵に立ち向かった。だが、自ら最前線で戦っていたレオニダスも乱戦の中で討ち取られ、配下の者達も次々と倒れ伏していった。

壮絶なる最期


※テルモピュライの戦いとサラミスでの動き

レオニダスが倒れると、両軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。

ギリシア軍はレオニダスの遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回とスパルタ軍は優勢であった。しかし、数では圧倒的に不利なスパルタ軍の生き残りも追い込まれる。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて近距離戦を避け始め、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ軍を攻撃した。

スパルタ兵もまた最後の一兵になるまで奮闘し、多くのペルシア軍兵士を道連れに、ついに全滅したのだった。古代ギリシアの歴史家ヘロトドスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。

こうしてテルモピュライは突破されたが、続くサラミスの海戦に勝利したギリシア連合軍は、ペルシア軍撃退に成功する。そして、レオダニスと配下の兵士達の奮闘は戦史上の伝説となったのである。

最期に

ヘロドトスによれば、「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに伏すと」(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われたとされている。現在においてもレオダニスとスパルタ兵は英雄として讃えられ、 ザック・スナイダー監督の映画『300 〈スリーハンドレッド〉(2007年)』でも描かれている。

関連記事:アケメネス朝ペルシア
アレキサンダー大王の大遠征について調べてみた
アレキサンダー大王の伝説 について調べてみた」

 

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