西洋史

アレキサンダー大王の大遠征について調べてみた

アレキサンダー大王の大遠征

アレクサンドロス3世(紀元前356年7月20日~紀元前323年6月10日)はマケドニアの王であり、その生涯を遠征と共に生きた人物である。

この時代、ギリシャという国はまだ存在しておらず、マケドニアとは現在のギリシャ世界の都市国家のひとつだった。またここではアレクサンドロスの英語読みである「アレキサンダー」で表記を統一したい。

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誕生から即位

アレキサンダーの家系はギリシャ世界においても随一であり、少年時代の彼は同世代の学友と共にアリストテレスから、基礎的な教養を学んだ。
また、ギリシャ世界の偉大さとギリシャ人としての誇りも教えられた。この時代、ギリシャは国家でこそなかったがアテナイスパルタテーバイなどのコミュニティーの集団がギリシャ世界だと考えられていたからである。


※アレキサンダーとアリストテレス

紀元前338年、若干18歳にしてアレキサンダーは一軍の将として父と共に初陣を迎えることとなる。相手はマケドニアに対する脅威を感じたアテナイテーバイ連合軍であったがこれに勝利する。この戦いの勝利に大きく貢献したアレキサンダーはその才を認められ、父であるピリッポス2世はやがてギリシャ全土を支配することとなった。

しかし、ピリッポス2世が側近により暗殺されてしまうと、その混乱に乗じてテーバイが反乱を起こしてしまう。アレキサンダーは20歳で王位を継ぐと、すぐさまそれを制圧し、ギリシャ全体を完全な形で掌握することに成功した。

これがアレキサンダー王の誕生である。

遠征の始まり

紀元前334年、ギリシャを統一したアレキサンダーは、父の遺志を継いでペルシアへの遠征を行う。当時のアケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、西はトルコやエジプト、東はパキスタン周辺まで及ぶ最強国家であった。このペルシアを打ち破らなければ、世界を手中に収めることは出来ない。

この時代の世界観で考えるとペルシャの先には「最果ての海」があると信じられていた。地中海を中心とした南ヨーロッパ、北アフリカ、中央アジアまでが
世界のすべてだったのである。

マケドニア軍38,000は、ペルシア軍40,00とアナトリア地方のグラニコス川で対峙する。一際派手な鎧で人目を引くアレキサンダーは、自ら軍の先頭を駆って突進すると敵将を投げ槍で仕留めたという。
あまりに鮮烈な勝利にマケドニア軍は士気を高め、ペルシア軍は恐怖を覚えた。その後もマケドニア軍は勝利を重ねながら東進を続けてゆく。この頃にはマケドニアの将兵もアレキサンダーのカリスマ性に魅了されていた。

彼は、我が身をもって行動を示す人物だったからだ。

そして、その勢いのままイッソス(現在のトルコ領内)でペルシア国皇帝ダレイオス3世が率いる12万のペルシア軍と衝突する。マケドニア軍は4万足らずとも言われるが、その劣勢を覆してペルシア軍に5万の戦死者を出して勝利した。
この戦いの後、アレキサンダーはペルシャ全軍を完全に制圧するまでの遠征に乗り出すことになる。


※イッソスの戦い Naples, National Archaeological Museum, Alexander Mosaic

エジプト遠征とペルシア王朝の滅亡

アレキサンダーは、反ペルシアの都市が比較的多かったシリアを経て、さらに南下するとエジプトを占領した。

ペルシア領になってまだ日の浅いエジプト占領は容易であり、紀元前332年にはエジプトの王ファラオとして認められる。
その後、ナイル川の河口西端に都市を建設したが、これが現在のアレクサンドリアである。

余談ではあるがアレキサンダーの死後、さらに発展したアレクサンドリアには世界の七不思議のひとつに数えられる「ファロスの大灯台」や、70万冊の蔵書を誇りながらも突如消滅した「アレクサンドリア図書館」などが建設された。これにより、地中海貿易の中心として大いに栄えたという。大灯台は二度の地震により崩壊したが、近年の調査によりその遺構が海中で発見されている。

※ファロスの大灯台

紀元前331年、再び東進したマケドニア軍47,000は、チグリス川上流にて20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った。勝利の鍵はアレキサンダーの天才的な指揮と、それを実現させたマケドニア軍の統制のとれた戦術だったといわれる。

ペルシア王朝の中枢であるイラン・イラク地域に進軍したアレキサンダーは、最初こそマケドニア軍に略奪などを許していたが、ペルシア文明の高さ、そしてそれを統治してきたダレイオス3世に尊敬の念を抱くようになる。
その経験が後の大王としての政策に生きるのだが、ダレイオス3世は配下の裏切りにより暗殺されてしまった。
これにより、ペルシア帝国はほぼ滅亡したといえる。


※ダレイオス3世

中央アジアからインドへ

ペルシアを滅ぼしたアレキサンダーは、中央アジアに進出する。

現地のソグト人による激しい抵抗は二年にも渡ったが、マケドニア軍は遊牧民の騎兵にも勝利を収めた。しかし、故郷を旅立ってから約7年もの遠征を続けた将兵の指揮はこのころから低下していく。
続いてインドへの遠征を開始したアレキサンダーだったが、初戦で両軍合わせて約2万もの戦死者を生む激しい戦いに勝利する。それでもインドへの侵攻を進めようとするアレキサンダーにある知らせがもたらされた。
その先に待ち構えるのは20万を超える大軍と6千頭もの象を用意したインド軍であると。さすがのアレキサンダーも自軍の損耗や兵の士気を考えて引き返す決断をする。
ここに彼の大遠征は幕を閉じることとなった。


※アレクサンドロスのインド行軍路(赤線)

アレキサンダーが夢見たもの

大遠征の夢は消えたものの、ペルシア文明の高さとダレイオス3世の人間性に感銘を受けたアレキサンダーは、自国の政策を「支配から融和」へと進めるようになる。マケドニアへの帰還途中にはマケドニアの兵士とペルシア人女性との合同結婚式が行われた。
バビロン(現在のイラク)においては帝国を文明ごとに大きく3地域に再編することなどを宣言、大帝国内では人と文化の移動が起こり、ギリシャ文化とオリエント文化が融合しヘレニズム文化として花開いたといわれる。

その後のアレキサンダーはアラビア遠征を計画していたが、突如倒れると10日間の高熱にうなされて死去する。マラリアだったという説が有力だが、これにより、34歳の若き大王はその生涯を終えた。紀元前323年6月10日のことである。


※アレキサンダー帝国の最大領域。遠征・征服した領域は東西4500kmに及ぶ

しかし、彼は最後まで見続けた夢があった。

オーケアノス」である。

古代ギリシャの神話においてウラヌスとガイアの息子でティターン一族の長兄にあたるオーケアノスは「海」を意味していた。そのため、古代ギリシャの世界観では、世界は円盤状になっていて、エウローパ(ヨーロッパ)、アシアー(西アジア)、リュビアー(北アフリカ)の三大陸が中心に存在し、その果てにはオーケアノス(海)がぐるりと取り囲んでいたとされる。


※古代の世界観

それ故にオーケアノスとは「地の果て」という意味も持っていたのである。英語で大洋を意味する「ocean (オーシャン)」の語源である。

アレキサンダーはそのオーケアノス、「最果ての海」を見ることを夢に遠征を続けたともいわれている。

まとめ

アレキサンダーほどの人物は古代にもかかわらず、その逸話は多い。軍事的天才というだけではなく、それだけ人を魅了する力があったのだろう。今回はその生涯を追うだけになってしまったが、いずれ、アレキサンダー個人の話を調べたいと思う。
最後に長期遠征に耐え切れず、不平を漏らした兵士たちへの叱咤の言葉を記しておこう。彼がどれほどの思いで遠征に望んだのかが垣間見える。

『私は兵士のために大きな苦労を忍んできた。お前たちの誰が私のためにそれほど苦しんだというのか。傷跡のある者は見せてみよ。その者は私の傷跡を見よ。お前たちの栄光と富のため、私は傷を受けたのだ。そしていま、私はもう戦いにかなわぬ者たちを、故国の人々がうらやむほどの身分にして帰郷させようとしているのだ。それなのにお前たちは皆を背き去ろうとしている。行くなら行ってしまえ』

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