西洋史

オーストリア帝国の皇后エリザベート【シシィ】の生涯について調べてみた

オーストリア帝国の皇后エリザベート【シシィ】の生涯について調べてみた

※ヴィンターハルターの手によるエリザベートの肖像。wikiより引用

美貌によって知られるオーストリア帝国の皇后エリザベートの生涯は、映画や演劇の題材になっており、宝塚歌劇団ではキャストを変えて幾度も公演が行われている。オーストリア=ハンガリー二重帝国の成立に大きな影響を与えた彼女の生涯について調べてみた。

父の薫陶を受けて育つ

シシイの愛称で知られるエリザベートのフルネームはエリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハといい、1837年12月24日にバイエルン王国の公爵マクシミリアンと妻ルドヴィカの次女として生を受けた。

エリザベートの父マクシミリアンはバイエルン王国の王族であるヴィッテルスバッハ家の血を引いており、バイエルン公の爵位を許されていた。膨大な資産をも有する「金持ちの貴族」でありながら、彼には宮廷暮らしが性に合わなかった。

市民と机を並べてミュンヘン大学で歴史学を学び、多くの蔵書を持つ教養人でもあった彼は自然を愛しており、シュタインベクル湖(ドイツ南部)の畔にあるポッセンホーフェン城(ドイツのバイエルン州)を修復し、家族の別荘として利用した。エリザベートは自然豊かな別荘で、多くの動物に囲まれて少女時代を過ごした。

マクシミリアンの家族は、バイエルンの貴族から「浮浪者の一団」と蔑まれたが、身分に関わりなく人と接する彼は市民からの人気が高かった。

彼は詩を綴るだけではなく、チター(南ドイツやオーストリアの弦楽器)の演奏や作曲もできる多才な人物で、祭りの時期になると農民の恰好で町の酒場に足を運び、楽器を演奏した。エリザベートは帽子を持ち、聴衆からチップを集めて回った。町の人々は2人の正体を知っていたが、それを暴くような真似はせずに接した。
エリザベートはチップを「私が自分で稼いだお金」と言い、大切に保管していたという。

若き皇帝ヨーゼフ1世に見初められる

※1853年に描かれたフランツ・ヨーゼフ1世皇帝の肖像。wikiより引用(出典)

エリザベートの母ルドヴィカはバイエルン王国の王女で、やや古い言い方をすれば「本家の娘が分家の当主に嫁ぐ」形の政略結婚であった。

マクシミリアンは10人の子どもたちの教育を妻に任せていたが、エリザベートは勉強が嫌いで、馬に乗って家庭教師の授業から逃げ出したこともあったと伝えられている。

エリザベートとは対照的に、姉のヘレーネは貴族の令嬢らしい立居振舞や礼儀作法を身に着けていた。そんな彼女に、ルドヴィカの姉ゾフィーから見合い話が持ちかけられる。見合いの相手はゾフィーの息子でオーストリア帝国の皇帝(当時23歳)フランツ・ヨーゼフ1世であった。

1853年8月16日に、バート・イシュル(オーストリアのエスターライヒ州)で、フランツ・ヨーゼフ1世とヘレーネの見合いが行われた。晩餐会や舞踏会が行われる見合いの席を父マクシミリアンは欠席したが、母ルドヴィカがエリザベートを社交界に慣れさせるために同行させたことが、彼女の生涯を決めることとなった。

フランツ・ヨーゼフ1世は、見合いの相手であるヘレーネではなく、妹のエリザベートに心を奪われた。彼は宮廷で絶大な影響力を持っていた母を相手に自らの意思を曲げず、エリザベートを妻に望んだ。

15歳のエリザベートはこの縁談に乗り気ではなかったが、相手はオーストリア帝国の皇帝である。彼女の意思で破談にできるようなことではなかった。婚約の翌日から、エリザベートはミュンヘンで皇后としての教育を受けた。

彼女に帝国の歴史を教えたヤノシュ・マイラート伯爵は、ハンガリーに関わりの深いマジャール人であった。当時のハンガリーはオーストリア帝国の支配下にあったが、マジャール人はハンガリー王国の独立を求めていた。1848年には革命が起こり、オーストリア軍とロシア軍によって鎮圧されている。

1854年4月24日にウィーンのアウグスティナ教会でフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの結婚式が行われた。

ゾフィーとの嫁姑争い

※新婚のフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート。wikiより引用

皇帝夫妻はウィーンの南部に位置するラクセンブルク宮殿で新婚生活をスタートさせたが、フランツ・ヨーゼフ1世は激化するクリミア戦争(1853年〜1856年)への対応に追われ、新妻の相手をする暇がなかった。

姑のゾフィーが支配する宮廷は、エリザベートにとって非常に居心地が悪かった。また、ゾフィーは嫁を快く思っておらず、会話の際には敬称を使わせ、嫁の周囲を息の掛かった人間を置いた。
夫のフランツ・ヨーゼフ1世は政務に忙しく、母に頭が上がらなかったので、嫁姑問題には無力であった。宮廷で孤立したエリザベートは、生まれ育った故郷を想う詩を綴っている。

フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートは1855年3月に長女を授かった。ゾフィーは自分の名前を与えた孫娘を両親から引き離し、自らの手元で養育する。1856年7月には次女のギゼーラが誕生したが、彼女の養育を行ったのも祖母のゾフィーであった。

1857年のハンガリー公式訪問に際し、エリザベートは姑の反対を押し切って幼い2人の娘を同行させた。旅行中に娘たちは体調を崩し、長女ゾフィーは1857年5月29日に2歳で死亡した。
エリザベートは娘の死に責任を感じ、次女ギゼーラの養育にも口を挟まなくなった。1858年8月に誕生した長男ルドルフの養育も当然のように姑のゾフィーが受け持った。

ゾフィーとフランツ・ヨーゼフ1世は、皇太子ルドルフが「強い軍人」に成長することを望み、軍人でもあるレオポルド・ゴンドクレール伯爵を教育係に任命した。だが、現代では虐待にあたるような教育(ルドルフは就寝中に枕元で鉄砲を撃たれ、体に冷たい水をかけられるなどの仕打ちを受けていた)により、幼いルドルフの心身が痛めつけられていることを知ったエリザベートは、夫と姑に抗議し、子どもの教育は自分が行うと宣言した。

彼女が新しくルドルフに付けた教育係のヨーゼフ・ラトゥール・フォン・トゥルンベルクは、個人の自由や権利を尊重する自由主義者で、その思想は皇太子ルドルフに大きな影響を与えた。

1868年4月に、エリザベートは三女マリー・ヴァレリーを出産する。唯一手元で育てることができた娘に、エリザベートは深く愛情を注いだ。

嫁姑問題の絶えない2人だったが、1872年に姑のゾフィーが肺炎をこじらせると、エリザベートは懸命に看護し、5月28日には姑の最期を看取ったという。

ハンガリーを愛した皇后 シシィ

エリザベートがオーストリア帝国からの独立を求めるハンガリー人に好意的だったのは、政治的な理由ではなく、感情的な理由によるものであった。姑のゾフィーがハンガリーを嫌っていたからである。

勉強は嫌いだが、興味のある事柄には熱中する性質のエリザベートは、習得が難しいとされるハンガリー語を熱心に学び、ウィーンの王宮を訪れたハンガリーの使者をハンガリーの民族衣装を着て迎え入れ、ハンガリー語でスピーチを行った。

エリザベートはハンガリーの貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と交渉を行う一方で、夫フランツ・ヨーゼフ1世を説得した。その結果1867年に、ハンガリーの自治が認められ、1人の人間がオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねるオーストリア=ハンガリー二重帝国アウスグライヒ)が成立した。

放浪の果てに旅先で生涯を終える

ウィーンの宮廷が性に合わず、公の場に出ることも稀だったエリザベートは、生涯にわたって旅を愛した。

1860年に北大西洋のマデイラ島(ポルトガル領)で療養を行ったのを機に、エリザベートはさまざまな理由をつけてはヨーロッパ各地や北アフリカの各地に赴いた。
ギリシャのコルフ島(別名ケルキラ島)に建てられた豪華な別荘は、ギリシャ神話の英雄アキレウスにちなんでアキレイオン(別名アヒリオン)と名付けられ、エリザベートのギリシャ旅行の拠点となった。

1887年10月にフランツ・ヨーゼフ1世は妻に宛てて「今年の春以降、一緒に過ごしたのは数日だけ」という内容の手紙を書いている。折り合いの悪い姑が亡くなった後も、エリザベートにとってウィーンの宮廷は居心地の悪い場所であることに変わりはなかったようだ。

※カタリーナ・シュラット

とはいえ、エリザベートは旅行三昧の日々を許してくれる夫を独りにすることを申し訳なく思ったらしく、1886年にカタリーナ・シュラットという女優を夫に紹介している。

カタリーナ・シュラットは皇帝夫妻の厚遇を受けたが、フランツ・ヨーゼフ1世との関係はあくまでも友人に留まった。

晩年ほとんどウィーンに姿を現さなかったエリザベートは、1898年9月10日に旅行先のジュネーブで無政府主義者のルイジ・ルケーニに刺され、60歳で命を落とす。

皇后暗殺の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は「私がどれだけ彼女を愛していたか、君には分かるまい」と三女マリー・ヴァレリー(別人という説もある)に語ったという。

【参考文献】
皇妃エリザベート展」展覧会公式図録
ハプスブルク家の女たち

 

まりもも

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幼い頃にシャーロック・ホームズに出会って以来、イギリス贔屓。大学では東洋史専攻

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