西洋史

【ハンニバルの大敗】ザマの戦いについて調べてみた

紀元前3世紀、カルタゴと共和制ローマとの地中海の覇権をかけた争いの行方は、「カンナエの戦い」の後、カルタゴ有利に傾くかに思えた。しかし、カンナエで大敗したローマは、それでも屈服することなく、国民を総動員して新たな軍団を編成すると同時に、耕作地や水源を破壊する焦土作戦を展開することになる。

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ローマの反抗

ザマの戦い
【※スキピオ・アフリカヌスの胸像】

ローマ軍の反撃はヒスパニア(現・スペイン)において開始された。ハンニバルに勝てないのなら、その策源地(戦場後方にある人員や物資の供給地)を陥落させ、ただでさえ厳しいカルタゴ軍の補給態勢を圧迫し、間接的にハンニバルを敗北に追い込もうという作戦である。このときヒスパニアの前線で活躍したのが、20代の若き指揮官「スキピオ」であった。

スキピオは紀元前209年、ヒスパニアの重要拠点であるカルタゴ・ノヴァを占領し、その翌年にはハンニバルの弟・ハスドルバルの軍をバエクラの戦いで撃破した。かろうじて撤退に成功したハスドルバルは、ハンニバルと合流すべくイタリアへと向かうが、イタリアに入ったところでローマの執政官ネロの軍に敗れ、落命することになる。

ヒスパニアで勢力を広げたローマ軍は、さらなる反撃の一手を打った。それは、カルタゴ本国への侵攻である。全204年、ハスドルバルをやぶったスキピオが、約35,000の兵とともに北アフリカへと上陸した。

スキピオの活躍


【※ザマの戦い直前に交渉するスキピオとハンニバル】

ここでスキピオは、カンエナではハンニバル軍の強い味方であった北アフリカの遊牧民族国家「ヌミディア」を自軍に加えることに成功する。当時、ヌミディアは二つの勢力による内戦状態にあり、一方をカルタゴが、もう一方をローマが支援していた。

北アフリカに上陸したスキピオはこの内戦に介入し、ローマに味方する勢力によるヌミディア統一を成し遂げたのである。精強なヌミディア騎兵を加えたスキピオ軍は、前203年の戦いでカルタゴ軍を討ち破った。

こうなってはもはやローマ本国を攻めている場合ではない。国家存亡の危機に直面したカルタゴ軍はハンニバルに対し、帰国命令を発したのだった。決戦の地ザマで対峙した時、ハンニバルの手元にはイタリアからの帰還兵にカルタゴやリビアで徴募された市民兵と傭兵を加えた歩兵が35,000、ローマ側につかなかったヌミディア騎兵とカルタゴ・リビア騎兵合わせて約4.000、戦象80頭があった。対するスキピオ軍は歩兵30,000、ヌミディア騎兵とローマ騎兵合わせて約6,600からなる部隊で対抗する。

このとき、優勢な敵騎兵によって両翼から包囲される危険があることを察知したハンニバルは、歴戦の古参兵を予備として最後尾におき、敵が背後に回った場合に備えていた。

ザマの戦い 対峙する両雄


【※ザマの戦い】

戦闘が開始されると、まずは両軍最前列の散兵(隊列を組まない軽装備の兵士)同士が弓や投げ槍での射撃戦を展開する。そして、頃合いを見たハンニバルは、戦象部隊に突撃を命じた。しかし、ローマ軍は戦象の突撃に備え、あらかじめ歩兵の隊列に隙間を空けていた。戦象はその隙間を通り抜けるだけになってしまい、攻撃は失敗に終わる。

続いてスキピオは両翼の騎兵部隊に前進を命じた。この騎兵同士の戦いはローマ軍が圧勝し、カルタゴ軍騎兵は潰走する羽目になる。しかし、ここで予想外のことが起こった。興奮したローマ軍騎兵が逃げる敵を追撃し、戦場から姿を消してしまったのだ。

戦いは歩兵同士のぶつかりあいに移行したが、カルタゴ軍第二列の市民兵の動きが鈍く、カルタゴ軍の隊列が乱れた。その隙をついてローマ軍の攻勢が開始される。このとき、スキピオは第二列、第三列の歩兵に対し左右に広がるように命じた。

中央の歩兵部隊が両翼から包囲されかねない事態に、ハンニバルは最後尾にいた古参兵を前進させ、中央部隊の側面を守るように命じる。

カルタゴの末路

だが、まさにそのときだった。

ローマ軍の騎兵が舞い戻り、カルタゴ軍の背後から襲いかかったのである。カルタゴ軍は包囲の輪の中に閉じ込められた。攻守ところを変えてカンナエと同じ惨劇が繰り広げられ、カルタゴ兵約20,000が戦死、約10,000が捕虜となった。

戦場から落ち延びたハンニバルは敗北を認め、カルタゴの指導者達にローマとの講和を訴えた。もはや戦力の尽きたカルタゴには、その道しか残されていなかったのである。講和に際し、海外領土の放棄と海軍の解体という要求を飲んだカルタゴは、地中海の覇権を完全にローマに明け渡すことになった。

ローマに凱旋したスキピオは「アフリカヌス」の尊称が送られ、以後は「スキピオ・アフリカヌス」と名乗ることになるのだった。

最後に

確かにハンニバルは天才的な戦略家だったが、大局を見て行動するには向いていなかったようだ。第二次ポエニ戦争の際も、首都ローマを目前に一気に進軍せず、消極的な戦いを展開した。

これに対し、当時の騎兵隊長は「あなたは勝利することはできるが、それを活用することを知らない」といったという。

そこにスキピオというライバルの出現により、大きな壁となった。戦いとは時に勢いを読む力が必要なのだ。

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