西洋史

戦術の天才・ハンニバルについて調べてみた

地中海を望む北アフリカの小国「チュニジア

しかし、紀元前146年まではカルタゴという古代都市国家があり、地中海貿易で栄えた。地中海に向けて突き出たような地形は船の停泊に最適だった。

やがて、北アフリカからキプロス、ギリシア、シチリア、さらにはイベリア半島の沿岸部を治める巨大な都市国家となり、イベリアからもたらされた貴金属が国の繁栄を支えた。

しかし、その繁栄に陰りが見え始める。その脅威は地中海を挟んで睨みを利かせる共和制ローマの存在である。

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ポエニ戦争の始まり

ハンニバル
【※ハンニバル・バルカ】

紀元前264年、ローマ軍のシチリア上陸によって、地中海の覇権を競う戦いが幕を開けた。「ポエニ戦争」である。

紀元前249年にハミルカル・バルカ将軍をシチリアに派遣したカルタゴは、連勝によってシチリア島全土を統一したかに思えたが、本国の判断ミスにより第一次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わる。

その2年後の前247年、ハミルカルは領土としてほぼ手付かずだったイベリア半島の植民地化を推し進めていたが、そこで子が生まれた。神話の神バアルを讃える意味を持つ「ハンニバル」という名の男児である。シチリアを奪われたとはいえ、カルタゴの英雄を父に持つハンニバルは、幼い頃からローマを敵として育てられてきた。

しかし、ハミルカルは殖民都市カルタゴ・ノヴァの完成を見届けずにこの世を去る。以後、ハンニバルは姉夫婦のもとに身を寄せて成人を迎えた。

ハンニバル の台頭

ハンニバル
【※ハンニバルの行路(点線)】

前221年、ハンニバルの義兄であるハシュドゥルバルが暗殺される。ハシュドゥバルもハミルカルの跡を継いで外交政策を強力に推し進めてきた実力者だったが、彼の暗殺により、ハンニバルに転機が訪れた。

若干26歳のハンニバルはイベリア半島で軍の司令官に選ばれたのだ。

本国カルタゴの承認を得て、戦場に立つことになる。ハンニバルの名は、すでにローマにまで届いており、恐れられていた。当時はカルタゴ、ローマ間で不可侵条約を締結していたが、ハンニバルの台頭により、ローマが軍を動かし始めたことで、再び両軍の関係は悪化する。一方、カルタゴではハンニバルの人気は絶大であり、カルタゴ政府も彼に国の未来を託した。

前218年、カルタゴ・ノヴァを出発したハンニバルの軍は、一気にローマ本国を狙うべく不可能とも思えるアルプス越えを行い、消耗しつつもイタリア半島へと軍を進める。これが「第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)」の始まりであった。

ローマ震撼!ハンニバルのアルプス越え


【※アルプス山脈を越えるハンニバルの軍】

ローマもハンニバル軍の侵攻は予測していたものの、アルプス越えは完全に予想外だった。

無論、ハンニバル軍に被害がなかったわけではない。戦闘用に訓練した「戦象」と騎兵、歩兵を率いて、雪の降る極寒のアルプスを越えたために戦力は低下している。

それでもローマを驚愕させるには十分な効果があった。

ローマ軍はイベリア半島での戦闘を予測して、執政官の「プブリウス・コルネリウス・スキピオ」の軍勢を展開させていたが、すぐにこれを呼び戻してハンニバルを追撃させる。しかし、これはイタリア北部のトレビアの戦いでローマ軍が破れ、スキピオも負傷する結果となった。このプブリウス・コルネリウス・スキピオの息子、スキピオ・アフリカヌスが後のハンニバルの最大のライバルとなる。

ハンニバルの軍勢が有利と見た現地のガリア人を味方にしたカルタゴ軍は、その勢いに乗り、ローマを目指してさらに南下する。

ライバル・スキピオ登場


【※スキピオの胸像】

カンナエの戦い」で完全なる包囲殲滅を成し遂げたハンニバルは、そのままの勢いでローマへ進軍すると思われたが、兵站の不足などを理由にローマの同盟都市を離反させることにした。この消極的な計画には騎士隊長マハルバルが反対したが、ハンニバルは離反工作を進める。

しかし、この戦略はローマの崩壊を招くまでには至らず、逆にイタリア半島の戦況は膠着状態に陥ってしまった。なぜなら、同盟都市としてはローマを裏切ることに何のメリットもなかったからだ。逆にハンニバルはカルタゴ本国との連携が不足となり、ハンニバルの軍勢はカンパニア(ナポリ周辺)に押さえ込まれてしまう。

このタイミングで登場したのがローマの天才、スキピオ・アフリカヌスであった。

スキピオは、ハンニバルが本国ローマに攻め込んだように、ハンニバルの本拠地ともいえるイベリア半島に攻め込んだ。イタリアでハンニバルが動きを制限されている一方、スキピオはイベリア半島から一気にアフリカに渡り、カルタゴ本国に侵攻する。これにより、ハンニバルは本国に召還された。

スキピオとの決戦

戦力的に不利なハンニバルは、スキピオとの休戦協定を申し出る。

しかし、ローマの優位に対し、ハンニバルは北アフリカの地中海沿岸部をカルタゴ領として残すという、現実とかけ離れた提案をしたために交渉は決裂。このとき、すでにお互いの才能を高く評価していた二人だが、国を背負う司令官としては引けない条件であった。

その後、「ザマの戦い」で「カンナエの戦い」とは真逆の大敗を喫したハンニバルは、ローマの軍門に下ることとなる。第二次ポエニ戦争の終結とともに、カルタゴはローマの支配下に置かれ、その実力からカルタゴの経済政策を任されるようになる。しかし、その成功にローマが危機感を抱いたことから、ハンニバルはカルタゴからシリアに亡命した。

その亡命先にスキピオが訪ねてきたことがあった。戦場を離れれば友であるということを表すエピソードだ。そこで、お互いが腹を割って話すまでの仲となっていた。そこでハンニバルはスキピオに忠告する。

「(ローマのような)大国であっても繁栄し続けることはできない。敵は国外ばかりではなく、国内にも現れるだろう。頑強な人間でも内部の病に苦しむように」

そして、地中海各地を転々としながら逃亡生活を続けたハンニバルも、最後には自殺することになる。前182年のことだった。

最後に

スキピオに破れ、ローマに追われる身になったとはいえ、現在でもハンニバルの名声は高い。イタリアにおいてすら、最強の敵と称されるくらいだ。

そして、ハンニバルがスキピオに語ったローマの危機も内戦という形で現実のものとなる。

そのローマを救ったのが「ガイウス・ユリウス・カエサル」であった。そして、この二人は後世のナポレオン・ボナパルトによって、7人の英雄に選ばれている。

関連記事:ローマ
ガイウス・ユリウス・カエサルについて調べてみた

 

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