中国史最後の狂気『纏足』とは ~4歳で足を折られた少女たち

小さな足が美とされた時代

画像 : 雲南省・元陽県の団山村で撮影された高齢女性たちの纏足 Woller / CC BY-SA 3.0 DE

かつて中国には、信じがたい美の基準があった。

それが「纏足(てんそく)」である。

女性の足を幼い頃から布で固く縛り、成長を抑えて小さく変形させることで、上品さや気品の象徴とされた。

より小さな足ほど高貴で慎ましいと考えられ、理想の大きさはおよそ9センチ前後。
人々はその極限の形を「三寸金蓮(さんずんきんれん)」と呼び、最高の美として讃えたのである。

この風習が始まったのは、唐末から宋のころといわれる。

文人たちは女性の小足を詩に詠み、絵師たちはそれを「金の蓮のつぼみ」にたとえた。

こうした幻想がやがて宮廷から民間へと広がり、明清の時代には女性の価値を決める尺度として定着していった。

その裏で、幼い少女たちがどれほどの痛みに耐えていたかは、ほとんど語られることがなかった。

4歳頃から始まる苦痛

画像 : 纏足を施された中国人女性と幼い娘 public domain

纏足が始まる時期は地域や時代によって異なるが、おおむね3〜4歳ごろだったとされている。

骨がまだ柔らかく変形しやすいこの年齢が“適齢期”とされ、少女たちは歩くことを覚えるのとほぼ同じ頃に、足を縛られた。

「美しく育てるため」「良縁を得るため」という信念のもと、母や年長の女性たちは、定められた手順で少女の足を固く巻いた。

美しくなるための通過儀礼ではあったが、幼い骨を折り、肉を裂く残酷な儀式でもあった。

秋の冷たい季節、母親や年長の女たちは少女の足を湯で温め、親指以外の4本の指を足の裏へ強く折り曲げる。

そこへ長さ2〜3メートルの布をきつく巻き、縫い留める。

画像 : 浙江省・桐郷市烏鎮・西柵地区にある「纏足博物館」の展示ジオラマ CC BY-SA 3.0

これは「試纏(しれん)」と呼ばれる最初の段階だ。

その後、3日に1度は布を解き、消毒し、さらに強く締め直す「試緊(しきん)」が始まる。

少女の足が悲鳴を上げても、母親は「これは娘の幸せのため」と言い聞かせた。

数か月が過ぎると、足の形は徐々に崩れ始める。
指は内側に折れ、骨がねじれ、皮膚は化膿し、血と膿がにじむ。それでも布は解かれない。

次の段階「緊纏(きんてん)」では、足全体を弓のように折り曲げる。

足の甲を無理に押し上げ、土踏まずを凹ませることで、「弓足(ゆみあし)」という形が作られていった。

画像 : 中国人女性の纏足(内側から見た状態)public domain

最後の工程「裹彎(らわん)」では、変形した足をさらに固定し、布の上から竹の棒で押さえて形を整える。

この仕上げの工程だけでも半年から1年ほどを要したが、纏足の全過程は3〜5年にも及んだ。

長い苦行の末に、少女の足はようやく歩行も困難な「理想の小足」となったのである。

ここまでの過程で、感染症や壊疽を起こして命を落とす者も少なくなかったという。

家と社会が押しつけた呪縛

纏足は美のための行為であると同時に、婚姻制度の一部でもあった。

明清の時代、結婚は家と家を結ぶ取引であり、そこに個人の意思は存在しなかった。

画像 : 1901年ごろに撮影された中国の少女たち 一部の少女は纏足を施されている René Parison CC BY 2.0

この慣習の恐ろしさは、女性自身がそれを受け入れていたことにある。

母親はかつて娘と同じように足を折られた経験を持ち、今度は自らの手で次世代に施す。

涙を流しながらも、「これであの子も立派な娘になれる」と信じ、その連鎖が、千年近くものあいだ絶えることなく続いた。

纏足は単なる身体の変形ではなく、女性を「家の中」に閉じ込める装置でもあった。

小さな足では外を歩くことが難しく、必然的に女性は家庭に縛られる。

そうして男性中心の社会秩序が保たれやすくなり、女性は「従順」「純潔」「内に生きる存在」として暮らした。

纏足をしていない女性は「教養がない」「粗野だ」と見なされ、上流の家では結婚相手として選ばれにくかった。

明清期の都市部では、漢族女性の8〜9割が纏足を行っていたと記録されている。
華北や江南ではそれが当然の慣習となり、纏足していない女性は農家や労働階層に限られていた。

一方で、労働を重んじる客家や満族の女性にはこの風習はなく、のちに日本統治期の台湾で行われた調査(1915年)でも、福佬女性の約56%が纏足をしていたのに対し、客家女性はわずか0.9%にとどまっている。

反纏足運動がもたらした終焉

画像 : 1900年代初頭の北京で撮影された漢族の女性 public domain

しかし19世紀末、清朝の末期になると、長く続いた纏足への疑問が国内外で高まりはじめた。

改革派の思想家・康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)をはじめとする知識人や伝道師たちは、纏足を「国家の恥」として厳しく批判し、女性たちをこの苦痛の慣習から救おうと訴えた。

やがて彼らは「天足会」を組織し、放足(ほうそく=纏足をやめる)運動を全国へと広めていった。

1902年には、保守的とされた慈禧太后(西太后)さえも「勧戒纏足」の上諭を発し、社会全体に放足運動の気運が広がっていった。

だが、実際にこの風習を絶つことは容易ではなかった。

都市部では新しい教育を受けた娘たちが靴を脱ぎ、自然な足を見せはじめた一方、農村ではいまだ「纏足の娘しか嫁に取らぬ」と言い張る家も多く、母親たちは密かに娘の足を縛り続けていた。

しかし「纏足」の時代は、ついに本格的に崩れ始める。

1912年、孫文(そんぶん)率いる中華民国臨時政府が、国家として初めて法令のかたちで纏足を禁じ、長い慣習に終止符を打とうとしたのである。

画像 : 孫文 public domain

その流れは、日本統治下の台湾にも及んだ。

総督府は纏足をアヘンや辮髪と並ぶ「悪習」として禁じ、「天然足会(天足会)」の活動を支援した。

地震や災害で逃げ遅れた纏足女性が多かったことも廃止運動の後押しとなり、やがて島内からもこの風習は姿を消していった。

それでも完全に終わるまでには、なお長い時間が必要だった。

中国大陸では1950年代になっても一部の農村に纏足の老婦人が残り、雲南や貴州では「最後の小脚部落」と呼ばれる地域が21世紀初頭まで存在した。

彼女たちの足は、長く続いた風習が刻んだ歴史の証拠である。

小さな足に刻まれた傷跡は、かつて人々が信じた美の形の名残として、今も静かに語りかけている。

参考 :『清稗類鈔·卷六十五』『輟耕録·巻十』他
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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