三國志

魏の歴史【曹操、曹丕、司馬懿】三国時代一の強国

今回は三国志の時代で一番の強国であったを見てみようと思う。

魏は220年~265年の45年間、中国の河北地方を支配していた王朝である。
首都は洛陽

魏の歴史
※魏の位置(黄色の部分)wikipediaより

さて、魏の年表を見てみよう

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魏の年表

184年 黄巾の乱がおきる(三国時代の幕開け)
194年 曹操兗州(えんしゅう)牧に任命される。この地で青洲から来た鉱金属の兵30万人と非戦闘員100万人を配下に納める
196年 曹操屯田性を開始
200年 官渡の戦いにて袁紹を破る
207年 袁紹に味方していた中国北部の烏桓族を破る(白狼山の戦い)曹操は河北の統一を成し遂げる
208年 曹操、丞相に任命される。孫権・劉備連合軍と赤壁にて戦うも、周瑜の火刑に敗れる(赤壁の戦い)
211年 馬超、韓遂を中心とした、関中の軍閥連合軍を破る(潼関の戦い)
213年 曹操、司隸・兗州・徐州・豫州・青州・并州・冀州・幽州・涼州・荊州の十州をもって、魏公に封じられる。曹操、呉の孫権討伐の軍を起こすも、一か月余り対峙した後軍を引く(第一次濡須口の戦い)
215年 漢中にて五斗米道を率いる張魯を降伏させる(陽平関の戦い)その後曹操軍は、益州(蜀)を制圧した劉備軍と漢中で戦うことになる
216年 曹操、魏王に封じられる。曹操、二度目の孫権討伐に赴く。約半年対峙した後、孫権が使者を送り降伏を申し出たため軍を引く(第二次濡須口の戦い)
219年 漢中を守備していた夏侯淵が劉備に討ち取られる(定軍山の戦い)曹操自ら漢中に出向くも、漢中を劉備に奪われる。劉備配下の武将・関羽が曹操勢力下である樊城・襄陽を包囲するも、曹操は孫権と同盟を結び、これを破った(樊城の戦い)
220年 曹操病のために死去する。諡は武王、息子曹丕が魏の皇帝になると太祖武皇帝と追号された。曹操の死去とともに、息子曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継ぐ。同年のうちに曹丕、後漢の最後の皇帝・献帝から禅譲を受け魏の皇帝となる(文皇帝)
222年 曹丕、呉討伐軍を起こすも撤退
226年 曹丕、病にて崩御。長男の曹叡(明皇帝)が魏の皇帝になる
227年 呉の孫権が軍を率いて攻めてくるも、これを破る
228年 孟達が蜀の諸葛亮と内応し、魏に反乱を起こすも司馬懿によって鎮圧される。諸葛亮が魏討伐の軍を動かすも、魏将・張郃と曹真がこれを破る。さらに魏の将軍・曹休が呉を攻めるも、呉の将軍・陸遜に石亭で敗れる
229年 諸葛亮が派遣した陳武により、武都・陰平郡を奪われる。中央アジアから北インドを支配していたクシャーナ朝のヴァースデヴァ1世が魏に使節を送る
231年 蜀の諸葛亮が再び攻めてくるも、決着がつかず蜀軍は退却
234年 蜀・呉の連合軍が魏を攻撃。東では満寵が呉軍を破り、西では諸葛亮が病死したため蜀軍は撤退。諸葛亮の死後、曹叡は宮殿の造営や酒にのめり込み国政が疎かになる
235年 中国北部に存在した遊牧騎馬民族の鮮卑族の部族長・軻比能を暗殺
238年 遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼす。邪馬台国の卑弥呼、魏に使者を派遣。親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられる
239年 曹叡崩御。曹叡の子が相次いで夭逝したために養子に迎えていた曹芳(曹操の4男・曹彰の孫)が皇位を継ぐ。皇位に就いたとき8歳と幼年だったため、曹叡は大将軍・曹爽と司馬懿に後見を託す
241年 呉軍が魏の樊城を包囲するも、これを破る(芍陂の役)
243年 呉の諸葛恪を撤退させる
244年 毌(カン)丘倹を派遣し、高句麗の首都を陥落させるも滅亡させるには至らず。曹爽、司馬懿の反対を押し切り蜀討伐軍を起こすも失敗し、多大な犠牲を 出す(興勢の役)軍内部での曹爽と司馬懿との対立が起きる
246年 曹爽、呉を侵攻するも司馬懿の反対を無視して逃げてきた住民を呉に帰したため、大損害を出す
249年 司馬懿がクーデターを起こし、曹爽一派を逮捕し権力を握り、皇帝曹芳を傀儡とする(高平陵の変)
251年 呉の荊州を攻め、大勝する。司馬懿が死去し、子の司馬師が権力を引き継ぐ
252年 諸葛誕らが呉を攻めるも、呉の大将軍・諸葛恪に敗れる(東興の戦い)
254年 魏帝・曹芳が権力奪還を目論むも、発覚し廃位される曹叡の異母弟である曹霖の息子・曹髦が皇位に就く
255年 毌丘倹らが反乱を起こすも、司馬師によって鎮圧される(毌丘倹・文欽の乱)司馬師が死んだため、その権力を弟の司馬昭が引き継ぐ。隴西郡に蜀の姜維が侵攻してきて、これに敗北
256年 魏の将軍・鄧(トウ)艾が段谷にて蜀軍を破る(段谷の戦い)
257年 諸葛誕が呉と同盟を結んで反乱を起こす
257年 司馬昭がこれを鎮圧(諸葛誕の乱)諸葛誕の反乱は、魏軍26万と呉軍20万が1年にわたり激突した大戦であった
260年 司馬昭の権力が強く傀儡であったことに不満を抱いた曹髦、側近とともに自殺的なクーデタを起こすも、司馬昭の腹心・賈充によって殺害される。曹操の孫にあたる曹奐が皇位に就く
263年 司馬昭は鄧艾・鍾会を派遣し、蜀を滅ぼす
264年 鍾会が蜀の大将軍・姜維と手を結び益州にて反乱を起こすも鎮圧される。蜀を滅ぼした魏は、呉にも侵攻し勝利を収める。司馬昭、晋王に封じられる
265年 司馬昭は死去し、息子の司馬炎が権力を引き継ぐ。司馬炎、曹奐の禅譲を受け魏は滅び晋王朝になる
280年 呉を制圧し、晋王朝は中国大陸を統一する

この年表をみて分かる通り、魏の初代皇帝は曹操の息子の曹丕である
そしてこの曹丕の皇帝即位(220年)をもって、漢王朝は滅亡。更に呉では孫権(229年)、蜀では劉備(221年)がそれぞれ皇位に就き、一人しか存在できないはずの皇帝が三人並び立ったのである。

曹丕と司馬懿


※魏文帝曹丕 wikipediaより

意外に思う人もいるかも知れないが、曹操は自らは皇位には就いていないのである。
当時、皇族以外に「」の位を与えないという不文律があったのだが、曹操はその不文律を破る形で「魏王」に封ぜられた。
これは皇位簒奪に向けた前段階ではあったが、彼は存命中には皇位を奪ってはいなかった。
そして息子の曹丕が禅譲と言う形(実際は簒奪だが)で皇帝に即位したのである。

同じような形で魏が滅びたのは、歴史上の皮肉と言うべきであろう。

余談だが、曹操は死の直前に
三頭の馬が一つの桶のえさを食べている」夢を見たという

※司馬懿 wikipediaより

三頭の馬とは、司馬懿と、師・昭の兄弟のことであり、桶は曹という予知夢であった。
この夢を見た曹操は、息子の丕に「司馬懿は臣下で終わる人物ではない」と忠告するが、司馬懿に親しみを感じていた丕はその忠告をまともに取り合っていない。

曹丕と司馬懿の仲はかなり良好であり、司馬懿も曹丕に忠誠心を抱いていたように思われるため、父の忠告を聞かなかったのも頷ける。次のページへ

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