6世紀の中国は、南北に分裂し、戦乱の絶えない時代だった。
北方では、騎馬民族の鮮卑系の拓跋氏が建てた北魏が華北を統一したものの、内部の対立から東魏・西魏に分裂し、やがて北斉と北周が成立した。
一方、南では漢民族の王朝が交替しながら、江南を支配していた。
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画像 : 陳と北周・北斉・後梁(557年~589年)wiki © 俊武
劉宋・南斉・梁と続いた南朝は、557年に陳が成立したことで、最後の王朝を迎えることとなる。
しかし、陳は成立時点ですでに国力が弱く、梁の全領土を継承することはできなかった。長江の南側を維持するにとどまり、北方の強国からの圧力に常にさらされていた。
そんな陳の宮廷に生きたのが、今回の主人公である張麗華(ちょう れいか)である。
彼女は10歳で宮中に入り、後に皇帝となる陳叔宝(ちん しゅくほう)の寵愛を一身に受けた。
その美貌は伝説となり、やがて後宮で特別な存在へと昇り詰める。
しかし、その美しさが彼女の運命を狂わせ、国の滅亡とともに悲劇的な最期を迎えることになる。
なぜ、彼女は皇帝に寵愛され、後宮で絶大な影響力を持つに至ったのか。
そして、なぜ「紅顔禍水(美人が原因で国や君主が乱れる)」として語り継がれることになったのか。その数奇な生涯をたどっていこう。
滅びゆく南朝・陳
前述したように、南朝・陳は557年に誕生したが、当初から国力は脆弱だった。
初代皇帝・陳覇先(ちん はせん)は、かつて南朝・梁に仕えた武将で、混乱の中で皇帝の座に就いた。
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画像 : 陳の初代皇帝・陳 霸先(ちん はせん)public domain
しかし、国の基盤は不安定で、梁の旧勢力や地方豪族との対立を抱えたままのスタートだった。
さらに、陳の領土は梁時代よりも狭く、北方の強大な王朝に常に圧力をかけられていた。
この時代の流れとしては、577年に大国の北周が北斉を滅ぼし、43年ぶりに華北を統一。その後、隋が北周を吸収し、中国統一に向かうことになる。
つまり、陳は生き残るために、ますます厳しい状況に追い込まれていた。
だが、582年に即位した第5代皇帝・陳叔宝(ちん しゅくほう)は、そんな危機感をまるで持っていなかった。
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画像 : 陳の第5代皇帝・陳叔宝(ちん しゅくほう) public domain
彼は政治を顧みず、後宮で酒と詩と美女に溺れていたのである。
「美しすぎる少女」張麗華、10歳で後宮へ
その少し前の568年頃、ある一人の少女が宮廷へと足を踏み入れていた。
彼女の名は張麗華(ちょう れいか)。
貧しい家に生まれながらも、その類い稀な美貌によって、わずか10歳で後宮へと入ることになった。
張麗華は兵家(軍人の家)の出身で、父や兄は織席(むしろ織り)を生業としていた。貴族の家柄ではない者が宮中へ入ること自体が異例のことであった。
彼女は陳の太子・陳叔宝に仕える側室、龔貴嬪(きょうきひん)の侍女として宮中に迎えられた。
張麗華の美しさは、幼くしてすでに宮中の注目の的となった。
『陳書』によれば、
張貴妃髪長七尺,鬒黑如漆,其光可鑒。
意訳 : 張貴妃の髪は七尺(約2メートル)の長さがあり、漆のように黒く艶やかで、その光はまるで鏡のように輝いていた。
『陳書』張貴妃伝より
とされ、その容貌はまるで仙女のようだったという。
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画像 : 張麗華イメージ 草の実堂作成(AI)
当時太子だった陳叔宝は彼女を見て、そのあまりの美しさに心を奪われた。
そして582年、陳宣帝が崩御し、陳叔宝が第5代皇帝として即位すると、侍女だった張麗華は正式に貴妃の座を与えられる。
こうして、10歳で宮中に入った少女は、最終的に皇帝の寵妃へと上り詰めたのである。
皇帝を虜にし、後宮を支配する
後宮には数多くの妃嬪がいたが、張麗華の存在は圧倒的だった。
彼女は単なる美貌の持ち主ではなく、聡明で機転が利き、皇帝の機嫌を取る術を心得ていた。
その魅力は、皇帝を完全に虜にした。
皇帝は政務よりも張麗華との時間を優先し、彼女を膝の上に乗せたまま大臣たちと話し合いをすることさえあった。
さらに、張麗華は後宮の宮女たちを積極的に推薦し、彼女たちの地位向上を助けて支持を集めた。
つまり、男の扱いだけではなく、嫉妬を買われやすい女性たちの扱いも抜群に長けていたのである。
その結果、彼女の影響力は後宮全体に及び、誰も逆らえなくなった。
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画像 : 楼閣イメージ 草の実堂作成(AI)
皇帝は、張麗華のために豪華な楼閣を築いた。
宮廷内には臨春閣・結綺閣・望仙閣という三つの楼閣が建てられ、その装飾には金銀や宝石がふんだんに使われた。これらは宮殿の中心部にある光昭殿の前に並び、まるで夢のような華やかさを誇ったという。
張麗華は結綺閣に住み、皇帝は日々この宮殿を巡りながら、寵愛する妃たちと遊宴に明け暮れた。
また、皇帝は文学を愛し、宮廷ではしばしば詩会が催された。
張麗華はこの場にも積極的に関与し、後宮の女性たちに詩を詠ませ、皇帝を楽しませた。
皇帝・陳叔宝の代表作で、後世において亡国の詩と揶揄される「玉樹後庭花」は、この華やかな宴のなかで生まれたとされる。
しかし、こうした贅沢な暮らしの裏で、陳の国力は着実に衰えていった。
隋の侵攻、そして井戸の中へ
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画像 : 隋の初代皇帝・楊堅(文帝)public domain
この頃、北では北周に取って代わった隋が、急速に勢力を拡大していた。
589年、ついに隋の大軍が陳の首都・建康へと迫る。
しかし、陳の皇帝・陳叔宝は、隋が攻めてくることを知りながらも、これまでと同じように宮廷で酒宴にふけっていた。
隋の軍勢は予想以上に速く進軍し、わずか数日で長江を越えて建康の城門へ到達した。
陳軍は戦う前から崩壊していた。各地の防衛拠点はほとんど抵抗せずに陥落し、兵士たちは次々と逃亡した。
皇帝に忠誠を誓う将軍たちも、絶望的な状況を見て抗戦を諦める者が多かった。もはや陳の滅亡は時間の問題だった。
隋軍が宮殿に迫ったとき、皇帝・陳叔宝はついに逃亡を決意する。
彼が選んだ隠れ場所は、宮殿内にあった井戸だった。
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画像 : 井戸 イメージ
彼は最愛の張麗華、そして寵妃の一人・孔貴嬪とともに、その暗く狭い井戸の底へと身を潜めた。
しかし、隋軍はすぐに井戸の存在に気づく。
兵士たちが上から石を投げ入れると、中からすすり泣く声が聞こえた。そこで彼らは井戸に向かって叫んだ。
「誰か中にいるのか?いないのなら石を投げ続けるぞ!」
沈黙が続いた後、ついに皇帝が観念して声を上げ、皇帝、張麗華、孔貴嬪は隋軍に捕らえられた。
井戸から引き上げられた張麗華の姿は、伝説となるほど衝撃的だったという。
彼女の長い黒髪が井戸の縁に絡まり、そこに塗っていた白粉(おしろい)が付着した。
この跡は「胭脂井(えんしい)」と呼ばれ、今も悲劇の象徴として語り継がれている。
こうして、南朝・陳は滅亡し、栄華を誇った後宮の美しき妃は、勝者である隋の前に引きずり出されたのである。
「紅顔の禍水」と呼ばれた少女の悲劇
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画像 : 張麗華『古今百美図』public domain
隋の晋王・楊広(後の煬帝)は、張麗華の美貌に強い興味を抱き、手元に置こうと考えた。
しかし、隋の重臣・高熲(こうけい)は
「周の武王が殷を滅ぼした際、妲己を処刑したように、陳を滅ぼした以上、張麗華を生かしておくべきではない」
と彼女を危険視し、処刑が決まった。
張麗華は孔貴嬪とともに青溪中橋で処刑され、その首は橋の上にさらされたという。
一方で、彼女を最も愛した元皇帝・陳叔宝は、隋によって命を奪われることはなかった。
通常、捕らえられた君主たちは、後顧の憂いを断つために処刑されることが多かったが、彼は例外だった。
亡国の悲劇を嘆くどころか、酒浸りの生活を送り、詩を詠み、贅沢を望み続けたからである。
陳叔宝は、後に隋の都・長安へ送られたが、宴席で「無位無官であることが不満だ」と愚痴をこぼし、隋の皇帝を呆れさせた。また、食事について問われると「驢(ロバ)の肉が好きだ」と答え、酒の量を尋ねられると「毎日一石(約18リットル)飲む」と平然と語ったという。
この呑気さがかえって危険視されず、命を長らえさせたのかもしれない。
604年、陳叔宝は隋で病没した。彼は隋の皇帝から「煬」の諡号を与えられ、亡国の君主として歴史に名を残すこととなった。
張麗華は、その死後も「亡国の妃」「紅顔の禍水」として語り継がれることになる。だが、果たして彼女が本当に国を傾けたのだろうか。
彼女は、わずか10歳で後宮に入り、皇帝の寵愛を受けることだけが生きる術だった。そして最後は、その美しさゆえに処刑された。
張麗華は国を滅ぼした罪人なのか、それとも運命に翻弄された被害者なのか。千年以上の時を経た今も、その問いは残り続けている。
参考 : 『陳書』張貴妃伝『南史』后妃列伝 他
文 / 草の実堂編集部
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