三國志

伝説の名医・華佗 〜曹操に処刑された『神医』の失われた医術とは

華佗(かだ)は、後漢末期を代表する伝説的な名医である。

沛国譙県(現在の安徽省亳州市または河南省商丘市永城市)の出身で、幼少期から学問に励み、医術を磨いた。

伝説の名医・華佗

画像 : 華佗 public domain

華佗は「麻沸散(まふつさん)」と呼ばれる麻酔薬を考案したことで知られる。

これは、患者を無痛状態にし、外科手術を可能にした画期的な発明である。手術では、腹部を切開し、患部を洗浄した後に縫合する方法を用いたとされる。

さらに、健康維持と病気予防を目的とした「五禽戯(ごきんぎ)」という気功体操を考案した。
この体操は、虎、鹿、熊、猿、鳥の動きを模倣することで、身体の柔軟性と活力を保つことを目的としたものである。

華佗はその名声にもかかわらず、官職に就くことを拒み、医師としての道を歩み続けた。

当時、医師はどれほど優れた技術を持っていても、しばしば方士や占い師と同列に見られ、社会的地位は低かった。
しかし、彼の医療技術は「神医」と称されるにふさわしいものであった。

以下に、『後漢書』に記された華佗の治療エピソードの一部を紹介しよう。

陳登の寄生虫治療

画像 : 華佗 public domain

華佗は、広陵太守・陳登の診察を行った際、膾(生魚の切り身)を好んで食べたことが原因で、胃に寄生虫が発生していると診断した。

原文: 廣陵太守陳登忽患匈中煩懣,面赤,不食。佗脈之,曰:『府君胃中有蟲,欲成內疽,腥物所為也。』即作湯二升,再服,須臾,吐出三升許蟲,頭赤而動,半身猶是生魚膾,所苦便愈。

意訳: 広陵太守陳登が突然胸の不快感に襲われ、顔が赤くなり食事を摂れなくなった。華佗が脈を診ると、『胃の中に虫がいる。それは膾(生魚の切り身)を食べたためです』と診断した。すぐに煎じ薬を作り、2回に分けて飲ませると、しばらくして3升分の虫を吐き出した。その虫は頭が赤く、動き回るものだったが、陳登の症状はこれで治った。

『後漢書』より引用

李通の妻の双胎診断

あるとき、華佗は曹操の部下・李通の妻の出産に立ち会い、流産した双子の胎児が残っているために病状が悪化していると診断した。

この診断は非常に高度なもので、適切な治療が施され、妻の命が救われた。

原文: 佗曰:『脈理如前,是兩胎,先生者去,血多,故後兒不得出也。胎既已死,血脈不復歸,必燥著母脊。』乃為下針,并令進湯。婦因欲產而不通。佗曰:『死胎枯燥,埶不自生。』使人探之,果得死胎,人形可識,但其色已黑。

意訳: 華佗は『脈を診ると、これは双胎(双子)です。先に生まれた一人の胎児は無事に出産されましたが、その際の大量出血の影響で、もう一人の胎児が出産できずに母親の体内に留まってしまっています。また、この胎児は既に死亡しており、母親の背骨に付着しています』と説明した。

華佗は針治療を施し、湯薬を与えた結果、母親はようやく出産に至った。取り出された胎児は黒く枯れた状態になっていたが、人間の形は保たれていた。

『後漢書』より引用

怒りによる治療法

華佗は、重病に苦しむ郡太守を診察した際、「激怒させることが治療法になる」と判断した。

そして、高額の謝礼を受け取りながらも意図的に治療を行わず、さらに悪口を書いた手紙を残して去った。

この挑発に激怒した郡太守は数升の黒い血を吐き、病状が治ったという。

原文: 又有一郡守篤病久,佗以為盛怒則差。乃多受其貨而不加功。無何棄去,又留書罵之。太守果大怒,令人追殺佗,不及,因瞋恚,吐黑血數升而愈。

意訳: ある郡太守が長らく重病に苦しんでいた。華佗は激怒させることが治療法になると判断し、多額の謝礼を受け取りながら何も治療をしなかった。そして手紙で罵倒し、去ってしまった。太守は激怒し、黒い血を数升吐き出して病が治った。

『後漢書』より引用

こうした逸話から、華佗は患者の精神状態や体質に合わせた高度な治療を臨機応変に行っていたことがわかる。

曹操との接触

画像 : 曹操イメージ by草の実堂

華佗の評判は、やがて魏の曹操の耳にも届いた。

慢性的な頭痛とめまいに苦しんでいた曹操は、名医とされる華佗を召し抱え、典医として身近に置いた。

華佗の鍼治療は曹操の症状を即座に緩和し、彼の信頼を得た。
曹操は「華佗は手放せない」と喜んだが、華佗自身はその立場に満足していなかったとされる。

華佗は医師としての役割だけでなく、士大夫としての尊敬を望んでいた。(※士大夫とは当時の上流階級で、儒学の教養を備えた知識人や読書人)

しかし前述したように、医師は当時の社会では軽視される傾向にあり、華佗の思いとは裏腹に、単なる医師としてしか認められなかった。

非業の死

華佗は「医書を取りに帰る」という名目で故郷に戻ったが、そのまま曹操のもとに戻ることはなかった。

その後も華佗は、妻の病気を理由に召還命令を拒否し続けたが、曹操はその真意を探るように部下に命じた。結果、妻の病気が虚偽であることが発覚し、これに激怒した曹操は華佗を逮捕させた。

華佗は投獄され、荀彧をはじめとする側近たちの命乞いも受けたが、曹操は赦さなかった。

処刑が決まる直前、華佗は自身の持つ医療書を牢番に託そうとした。しかし、牢番は罰を恐れて拒否したため、華佗は自らその書物を焼き捨てた。
この医療書には、当時の高度な医術が記されていた可能性があり、それが失われたことは後世にとって大きな損失であった。

華佗の死後、曹操は彼を失ったことを深く後悔したと伝えられている。彼の治療を受けられなかったために聡明な息子・曹沖が夭折したことも、その後悔をさらに深めた。

医術の伝説と遺産

画像 : 台北市龍山寺にある華佗像 wiki c Tatsundo h

華佗の考案した手術や健康法は、当時としては非常に先進的であったが、その後の中国においては儒教の影響で手術自体が忌避されるようになったため、華佗の技術が直接継承されることはなかった。

しかし、彼の伝説は後世の物語や民間信仰に取り込まれ、「神医」として語り継がれている。また、健康法「五禽戯」は現代の気功や運動療法のルーツとして評価され続けている。

参考 : 『後漢書』『正史三国志』他
文 / 草の実堂編集部

 

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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