知っているようで知らない三国志の結末

画像 : 三国時代(魏が緑、蜀漢が橙、呉が赤)262年 wiki c 玖巧仔
歴史上、三国志の結末は以下のように整理される。
・魏が蜀を滅ぼす(263年)
・魏が晋に禅譲する(265年)
・晋が呉を滅ぼし、天下統一を果たす(280年)
魏から晋への政権交代や、最終的に晋が呉を滅ぼして中国を再統一したことは、歴史の知識として知られている。
しかし、小説『三国志演義』を原作とする漫画やドラマの多くは、蜀の滅亡で幕を閉じており、それ以降の展開まで目を向ける人は、三国志ファンの中でもかなりの通である。
たとえば、筆者にとってのバイブル『横山三国志』も、蜀の滅亡をもって完結しており、晋の建国や呉の滅亡までは描かれていない。
ドラマ『三国演義』では、魏が晋となり、晋が呉を滅ぼす映像がエンディングに簡潔に挿入されるのみで、物語としてのラストは姜維の反乱と自害で終わる構成になっている。
今回の主役は、魏・晋に仕えて三国時代を終わらせた最後の名将、杜預(とよ)である。
ドラマや漫画などではほとんど描かれることがなく、知名度も高くはない。
だが、歴史のうえで三国志という時代を終わらせたのは、まさしく杜預であった。
はたしてどんな人物だったのだろうか。
魏のエリートコースを歩むはずだった男

画像 : 杜預(とよ)public domain
222年に生まれた杜預は、魏の名門の出身であった。
祖父の杜畿(とき)は魏の尚書僕射、父の杜恕(とじょ)は幽州刺史と、代々要職を歴任した家柄である。
杜預も、名家のサラブレッドとしてエリートコースを歩むはずであった。
その杜預の歩みを語る前に、まずは父・杜恕(とじょ)の人物像に触れておきたい。
杜恕は良くも悪くも物事をはっきりと言う性格で、事実上のトップであった司馬懿を初めとする魏の面々との折り合いが悪かった。

画像 : 司馬懿(歴代聖賢半身像冊) public domain
249年、鮮卑族の王族に対する処刑を巡る事件で、その処分に関する報告書を提出しなかったことが咎められ、弾劾を受けることとなる。
この時、父・杜畿の功績により死罪は免れたものの、杜恕は官位を剥奪され、平民に落とされてしまう。
その後、征北将軍として北方に駐屯していた程喜(ていき)から、減刑と引き換えに妥協を求められるが、これも頑として拒否し、失意のうちに252年、55歳で没した。
その影響は、息子の杜預にも及ぶこととなる。
父の失脚によって、彼に用意されていたはずの出世の道は閉ざされ、平民として不遇の日々を過ごす事になったのだ。
だが、杜預は困窮しても心は折れなかった。
孔子の『春秋』を読み込み、知識を深めながら復帰の時を待ち続けたのである。
特にその中でも『春秋左氏伝』への傾倒は尋常ではなく、自らを「左伝癖(左伝マニア)」と称するほどであった。
杜預の復帰から蜀滅亡まで
そんな杜預の人生が大きく動き出したのは、30歳を過ぎた頃のことだった。
251年、司馬懿がこの世を去り、その後継として次男の司馬昭が政権の実権を握った。

画像 : 『後漢通俗演義』より曹魏の人物群像 public domain
実は、杜預の妻は司馬昭の妹にあたり、すなわち司馬懿の娘でもあった。
この縁によって、長く不遇の時を過ごしていた杜預に、再び登用の機会が巡ってくる。
杜預が、いつこの縁組を果たしたのかは不明であるが、父・杜恕がかつて司馬懿と対立していたにもかかわらず、両家の婚姻が成立した背景には、司馬昭の意向が働いていた可能性もある。
こうして中央政界に復帰した杜預だが、復活早々から華々しい活躍をしたわけではない。
263年、魏が蜀漢を攻め滅ぼす戦いに従軍したが、戦功として特筆されるような記録は残されていない。
また、その直後に起きた姜維と鍾会の反乱では、杜預は計画に加担せず、巻き込まれることもなかったため、処罰の対象とはならなかった。
なお、蜀を滅ぼした最大の功労者である鄧艾(とうがい)を、杜預は深く敬愛していた。
参考 : 『三国志』蜀を滅ぼした男・鄧艾 ~なぜ“英雄”は殺されたのか?
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/106495/
ゆえに、その鄧艾を陥れて死に追いやった衛瓘(えいかん)や田続に対しては、強い怒りを公然と示している。
天敵との関係
蜀の滅亡からわずか2年後の265年、魏は司馬昭の子・司馬炎により禅譲され、晋が建国される。

画像:司馬炎 public domain
杜預は新たに晋の官吏となり、法の整備や政治改革に尽力するが、その道は決して平坦ではなかった。
彼の前にたびたび立ちはだかったのが、同じ晋の重臣でありながら、終生そりの合わなかった男・石鑒(せきかん)である。
両者の対立が顕著に表れたのが、270年に起きた異民族・樹機能(じゅきのう)による反乱である。
晋はその鎮圧にあたり石鑒を総司令官に任じ、杜預も軍に加えた。
もともと折り合いの悪かった二人は、この戦地でついに激しく衝突することになる。
石鑒は、士気が高く装備も整った樹機能軍に対してすぐに出撃すべきだと命じたが、杜預はこれを危険視し「春までに兵糧と兵器の準備を整えてから進軍すべきだ」と強く進言した。
しかしこの意見は聞き入れられず、石鑒は逆に「無許可で城門や官舎を補修した」との罪状で、杜預を檻車に乗せて都へ送り、廷尉に突き出してしまう。
結局、杜預が司馬炎の叔母(高陸公主)の夫であることが考慮され、罪には問われなかった。
しかもその後、戦況は杜預の予見通りに推移し、石鑒の軍は思うような戦果を挙げられず、撤退を余儀なくされる。
この一件により、杜預の軍事的才能は高く評価されることとなった。
実は、杜預は馬にまたがることすら不得手で、弓術も苦手であった。
しかし、それを補って余りあるほどの作戦立案能力を持つ、まさに用兵の才に秀でた指揮官だったのだ。
三国時代の終焉

画像 : 杜預像(至聖先賢半身像 冊)public domain
杜預は、政治家としても優れていた。
かつて祖父・杜畿が、孟津の渡し場で水難事故に遭って亡くなったこともあり、彼は同地でたびたび起こる水害の防止策として、橋の建設を提言し、これを実現させた。
また、水利・農政・財政の改革にも手腕を発揮し、数多くの施策を進言して採用された。
その博識ぶりは朝廷内でも群を抜いており、「杜武庫(とぶこ)※あらゆる知識を備えた武器庫のような人物」とまで称された。
こうした実務の積み重ねを経て、ついに杜預の集大成ともいえる大戦が始まる。
「呉への侵攻」である。
279年、長らく晋を悩ませた樹機能の反乱がほぼ鎮圧され、軍の動員が可能となった。
これを好機と見た司馬炎は、中国統一の総仕上げとして呉への全面侵攻を決断する。
その総司令官に任じられたのが、杜預であった。
当時の呉は、君主・孫晧(そんこう)の暗愚と政治の乱れによって弱体化していた。

画像 : 呉の第4代皇帝 孫皓(そんこう)public domain
開戦に際し、杜預は以下のように述べたと伝えられている。
今兵威已振,譬如破竹,數節之後,皆迎刃而解,無復著手處也。
意訳 : 今や兵の威勢はすでに振るい立ち、まるで竹を割るかのようである。
初めのいくつかの節さえ裂けば、あとは刃を入れるだけで自然と裂けていき、もはや手をかけるまでもない。『晋書』巻三十四「杜預伝」より
まさにその言葉どおり、晋軍は怒涛の進軍を見せ、呉はほとんど抵抗らしい抵抗もないまま崩壊し、翌年280年、孫晧は降伏する。
なお、かねてより呉への侵攻を主張していたのは、荊州を守る鎮南大将軍・羊祜(ようこ)であったが、彼の存命中には実現せず、病に倒れる直前に杜預を後継として推挙していた。
杜預はその期待に応えて呉を滅ぼし、晋による中国統一を現実のものとした。
蜀の滅亡もそうであったが、呉の終焉もまた、最終決戦とは思えないほどあっけないものであった。
しかし、これこそが三国時代の結末だったのである。
三国時代完結のその後
ついに三国時代は幕を閉じ、歴史の転換点に活躍した杜預も、わずか4年後の284年、63歳でこの世を去る。
だが、ようやく訪れた晋の時代も、平穏が長く続くことはなかった。

画像 : 車に乗り後宮を巡る司馬炎 武帝後宮巡回絵 public domain
晋の初代皇帝・司馬炎は、天下統一を果たしたのちに政務への関心を失い、各地で反乱が続発した。
290年に司馬炎が崩じると、後継を巡る司馬一族の内紛が始まり、国は再び不安定な時代へと傾いていく。
やがてこの争いは、「八王の乱」と呼ばれる深刻な内乱へと発展する。
その経緯や顛末ついては、また別の機会に取り上げたい。
参考 : 『晋書』巻三十四「杜預伝」巻三「武帝紀」他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
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