生涯を通して孫権と戦い続けた天敵
三国時代の呉の初代皇帝であり、当時としては超長生きというべき71歳の人生を全うした孫権だが、彼には生涯を通じて戦い続けた「天敵」がいた。
その天敵が誰かという質問に対して、赤壁や合肥で激戦を繰り広げた曹操を連想する人が多数だが、正解は呉の重臣として長く孫権に仕えた張昭(ちょうしょう)である。
孫権の兄、孫策の代から重用されていた張昭が孫権の天敵というのは意外に見えるが、酒癖が悪く何かと暴走しがちだった孫権のブレーキ役となっていたのは張昭であり、孫権とは生涯を通じて「口うるさいじいやとやんちゃな若殿」という関係だった。
今回は、長い人生を孫権との戦いに費やした張昭子布の生涯に迫る。
孫策との出会い
徐州に生まれた張昭は、若い頃から勉強熱心な人物であり、地元では有名な存在だった。
董卓の暴走によって世間が混乱すると、張昭は混乱から逃れるため揚州へと移住する。
その後、袁術から独立する機会を伺っていた孫策に請われて孫策陣営に加わると、236年に死去するまで呉一筋の人生が始まる。
孫策は張昭を強く信頼しており、張昭の屋敷に訪れた際には母親に挨拶をするなど親しい関係だった。
残念ながら孫策は26歳の若さで暗殺されてしまうため張昭との関係を表すエピソードは多くないが、孫策は死の直前に孫権の事を張昭に託しており、孫権も内政の事は張昭に相談するよう遺言を受けている。
孫策の張昭に対する信頼の強さが伝わるエピソードではあるが、後の歴史を見ると孫策の遺言が孫権と張昭が生涯を通して戦う事になる「火種」でもあった。
張昭が丞相になれなかった理由
孫策から呉を任された孫権だが、当初は兄の死を悲しんでまともに政治をしようとしなかった。
そんな孫権の尻を叩いて立ち直らせたのが張昭であり、主君の弱気な姿を改めさせるのは家臣として立派な行動であるが、このような理想的な関係は長くは続かなかった。
赤壁の戦いに於いて降伏を主張するなど、張昭の意見は基本的に孫権と反対側にあった。
イエスマンばかりではトップの独裁となってしまうためブレーキ役が必要になるが、主君のための諫言もやりすぎると嫌われるどころか「恨み」の対象になる。
その証拠に、孫権が皇帝に即位した時には「赤壁の戦いで張昭の意見を聞いていたら、私は今頃は乞食になっていたであろう」と発言するなど、両者の関係は良好といえるものではなかった。(公衆の面前で「しかも皇帝として」わざわざ自身を貶めるような孫権の発言に対して張昭が不快感を抱いたのは言うまでもない)
また、孫策の代から呉の文官の事実上のトップとして誰もが認めていたにも関わらず、張昭が丞相に選ばれなかったのは有名な話だが、あれこれ理由を出して周囲の推薦を却下していた孫権の様子を見ると、張昭を丞相にしたくないという個人的な感情があったのは想像に難くない。
孫権との戦いの日々
何かある度に衝突していた孫権と張昭だが、正史には現代人の大半が真似の出来ないスケールの大きな「喧嘩」が紹介されている。
孫権の趣味は虎狩りで、自ら馬に乗って虎を追うほどだった。
個人の趣味に関してとやかく言うべきではないが、馬に乗っている孫権は生身であり、万が一虎に襲われたら大事故に発展する危険があった。
その不安は的中し、孫権は虎に襲われてしまう。
幸いな事に孫権の命は無事だったが、張昭は「君主の仕事は士卒を使う事であり、自ら虎を追う事ではありません」と、一歩間違えたら大惨事になっていた孫権の行動に激怒する。
もっとも、そんな事で孫権が懲りるはずはなく、装甲車を作らせて車の中から虎狩りを楽しむようになる。
全く反省した様子のない孫権に対して、張昭が苦言を呈しても全く相手にしなかった。
父の孫堅も兄の孫策も一人でいるところを襲われて命を落としており、孫権も知らないはずはないのだが、父や兄と同じような軽率な行動を取りながら長生き出来たのは幸運と言うしかなかった。
その後も酒宴の席で悪酔いして配下に水を浴びせる孫権(40過ぎのいい大人)に説教するなど、張昭の苦労は絶えなかったが、両者の対立はエスカレートしてついには「放火事件」にまで発展する。
232年、中国北東で独立勢力を築いていた公孫淵が呉に恭順の使者を送って来る。
それを聞いて喜んだ孫権は、公孫淵を燕王に封じるため使者として張弥と許晏を派遣する。
友好勢力が現れるのは呉にとって願ってもない申し出だったが、張昭は公孫淵は信用出来ないと反対する。
涙を流しながら反対する張昭だが、結局孫権は使者の派遣を決定し、意見を聞き入れられなかった張昭は病と称して自宅に引きこもる。
張昭の態度に腹を立てた孫権が張昭の屋敷の門を土で塞ぐと、張昭も門の内側から土で更に固めるという、子供でもやらないような低レベルの喧嘩を始める。
ちなみに、張昭の言う通り公孫淵はやはり孫権を裏切り、張弥と許晏は殺されてしまう。
孫権は張昭の意見を無視した事が失敗だったと認め、謝罪のため張昭の屋敷に向かうが、相変わらず門は塞がれたままで、孫権に会おうとしなかった。
張昭の頑固な態度に激怒した孫権は、門に火を点けて意地でも張昭を家から出させようとする。
それでも張昭は家から出る事をせず、孫権も本当に火事になっては困るので消火させる。
最悪そのまま焼き殺される覚悟だった張昭は意地でも孫権に会おうとしなかったが、見かねた息子達によって孫権の前に連れ出される。
ようやく謝罪の機会を得た孫権は自身の過ちを謝罪し、張昭もそれを受け入れたため、一歩間違えたら大惨事になるところだった大喧嘩は一件落着となった。
張昭死後の孫権
放火事件から4年、張昭は81歳の長寿を全うする。
普段着のまま葬って欲しいという遺言に従い、棺も簡素なものだった。
また、孫権も平服で葬儀に参列したと書かれているが、派手な葬儀を拒否した張昭の性格を考えれば、普段着のまま送り出すのが故人に対する最高の敬意だった。
張昭の死から16年後に孫権もこの世を去るが、張昭の死後、呉に大きなダメージを与えた二宮事件が起きる。
太子に任命されていた孫登が病死したという不幸があったとはいえ、後継者を決められず、権力争いを始めた臣下を纏められなかったのは孫権の人生に於ける最大の汚点だった。
子供のような喧嘩を繰り広げた事もあったが、嫌われる事を恐れず孫権に意見出来て、更には呉の重臣として臣下を纏められる力を持っていた張昭がいれば、孫和派と孫覇派の内部分裂もなく、呉はここまで酷くなっていなかったはずである。
孫権の天敵として、主君から嫌われ続ける生涯を送って来た張昭だが、ブレーキ役を失った晩年の孫権の耄碌具合を見ると、張昭の役割は当人達が思っている以上に大きかった。
そういう意味では、もっと功績が評価されるべき人物である。
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