「柱の傷はおととしの 五月五日の背くらべ……」
※海野厚「背くらべ」
他人から見ればどうでもいい(むしろない方がいい)傷でも、当事者にとっては大切な記憶が刻まれていることは間々あります。
まして身体についた傷は痛みを伴っている分、より一層強い思い入れがあることでしょう。
そこで今回は『三国志』で活躍した歴戦の勇士・周泰(しゅう たい。字は幼平)のエピソードを紹介したいと思います。
若き水賊の頭領、江東の小覇王に仕える
周泰の生年は不明、揚州九江郡下蔡(現:安徽省)の出身と言われています。小説『三国志演義』に登場する弟の周平(しゅう へい)はフィクションで、恐らく名乗りの周幼平(姓+字)を元に創作されたのでしょう。
若い頃は同郷の蒋欽(しょう きん。字は公奕)とコンビで水賊を率い、長江流域を荒らし回っていましたが、興平元194年に孫策(そん さく。字は伯符)が旗揚げしたと聞いて、その助太刀に駆けつけます。
孫策は初平二191年に歴戦の勇士である父・孫堅(そん けん。字は文台)を亡くして以来、その主君である袁術(えん じゅつ。字は公路)の元に身を寄せ、手柄を立てても報われない不遇の日々を過ごしていたのでした。
「なぁ公奕、いっちょうあの若殿様を助けてやらねえか」
「おぅ幼平、行かいでか!」
さっそく孫策に仕えた二人は、譜代の武将たちと力を合わせて江東地域(現:長江下流域)の平定に活躍。
揚州刺史の劉繇(りゅう よう。字は正礼)をはじめ、会稽太守の王朗(おう ろう。字は景興)、山越族の厳虎(げん こ。号は白虎)らを撃破、後に小覇王(しょうはおう。覇王・項羽の再来)と恐れられる孫策の快進撃を支えました。
数々の武功によって周泰は別部司馬(べつぶしば)、すなわち独立した部隊の指揮権を与えられ、より一層の将器を顕すことになります。
またこの頃、孫策の弟・孫権(そん けん。字は仲謀)が周泰のことをえらく気に入り、自分の家臣にさせて欲しいと申し出ました。
「幼平よ、どうだろうか?」
「弟君たってのご要望、身に余る光栄にございまする」
これが後に、孫権の運命を大きく左右することになるとは、まだ誰も知りません。
絶体絶命の死地から、傷だらけになって孫権を救出
さて、孫策が広く江湖(長江と洞庭湖。転じて中国大陸の南方広域)に人材を求めて勢い盛ん、着々と勢力を築き上げていく一方で、元の主君である袁術は面白くありません。
※この袁術、とかく妬み深い性格だったようで、かつて父・孫堅が都で暴虐の限りを尽くしていた董卓(とう たく。字は仲穎)を攻めた時も、手柄を立てさせまいと足を引っ張り、苦境に陥れたことがありました。
「おのれ小童め、あたかも自分が天下人のように振る舞いおって……わしの方が上であると思い知らせてやる!」
……と思ったかはともかく、建安二197年、袁術は皇位を僭称して仲(ちゅう)王朝の建国を宣言します。
「もはや漢王朝の天命も尽きたぞ!さぁ伯符よ、いま再び我が膝下に従うのじゃ!」
得意満面で臣従を求めた袁術でしたが、そもそも朝廷の権威と距離を取ろうとしていた孫策にしてみれば、漢王朝に成り代わろうとする袁術の誘いなど、何の魅力も感じられません。
「今後ますますのご活躍をお祈り申し上げます(意:誰が従うもんかバーカ)」
完全に愛想を尽かされた袁術は逆ギレしたものの、孫策を真っ向から攻めようとはせず、山越(さんえつ)族に根回ししてその背後を衝かせることにしました。
(いかにも袁術らしい卑ky……いや、これも兵法ですね)
ここで登場するのが、先年孫策によって蹴散らされた山越族の頭目・厳虎。弟・厳與(げん よ)の仇を討とうと孫策陣営の隙を窺います。
「……あそこだ!」
厳虎が狙いを定めたのは、孫権の陣中。ちょうど主力部隊が遠征しており、手薄となっていたのでした。
「野郎ども、遠慮は要らねぇやっちまえ!」
「すわっ、敵襲!」
山越族の大軍に完全包囲された孫権は、敵の手にかかるよりはと自害の短刀を手に取りますが、そこへ周泰が駆けつけます。
「早まりますな……この周幼平、必ずや若君を守り抜きます!」
周泰は決死の覚悟で敵中を突破、自身は12ヶ所もの致命傷を負いながら、孫権には指一本触れさせることなく救出しました。
「……おぉ、気がついたか!」
身を挺して孫権を護り抜いた周泰は、しばらく意識不明の重体に陥ったものの運よく回復。この手柄によって春穀県長の地位を与えられ、ますます懸命に奉公するのでした。
ちなみに、袁術の興した仲王朝はたった二年で滅亡(建安四199年)。敗れ去った袁術は野垂れ死に、厳虎も奥地に引っ込んだのか、歴史の舞台から姿を消しました(小説『三国志演義』では、部下の董襲に斬られたことになっています)。
数々の武勲を立て、順調に出世するも……
その後も数々の武勲を立てた周泰は建安四199年に宜春県長を拝命。併せて当地からの税収を直接自分の扶持とする特例(※)を認められ、いかに孫権が周泰を厚遇していたかが分かります。
(※)通常であれば、県長は宜春県を治めても俸給は主君から別にもらう管理人的な存在であり、税収をそのまま与えられるのは、当地の経営を信任されたも同然でした。
建安五200年に孫策が非業の死を遂げ、孫権がその覇業を継承すると周泰はますます重用され、孫家三代に仕える譜代の勇将・韓当(かん とう。字は義公)とコンビを組んで活躍。
かの赤壁の戦い(建安十三208年)では先陣を務め、大軍を率いて江南に攻め込んで来た曹操(そう そう。字は孟徳)の部将・張南(ちょう なん)と焦触(しょう しょく)を討ち取って大いに気勢を上げ、曹操軍の撃退に貢献しました。
こうして更に武功を重ねて建安二十二217年、平虜将軍の位に昇進し、対曹操戦の方面司令官(督)を拝命した周泰ですが、その部下となった徐盛(じょ せい。字は文嚮)や朱然(しゅ ぜん。字は義封)は彼に従おうとしません。
「あんな賊徒上がりの命令など、聞けるものか!」
徐盛は周泰の朋友である蒋欽と仲が悪く、また朱然は孫家三代に仕えた歴戦の勇士・朱治(しゅ ち。字は君理)の養子であり、譜代の誇りを鼻にかけるところがあったようです。
徐盛や朱然も孫権陣営の中核をなす名将であり、彼らが従わないなら、とみんなそっぽを向いてしまいました。
「これでは指揮が執れないばかりか、我が君にご迷惑をかけてしまいます。この際、それがしの面子は構いませんから、督には他の者を……」
すっかり困った周泰が任務の辞退を申し出ると、孫権は首を振って答えます。
「……余に考えがある」
全身に刻み込まれた忠義の傷
そしてある日、孫権は諸将を呼び集めて盛大な酒宴を開きました。しかし、そこには周泰の姿がありません。
「おや、周幼平がおらぬぞ」
「きっと督の任を解かれて、恥ずかしさのあまり出て来られないのだろう」
「あの厚かましい賊徒上がりめ、これで少しは大人しくなろうよ」
「となれば、次の督は誰じゃろうな……」
そんな噂話をしていたところ、孫権が入場。一同平伏してから頭を上げると、孫権の傍らに周泰が控えているのに驚きました。
ざゎ……ざゎ……(主君と一緒に登場なんて、常識ではあり得ない。一体どういう事だ?)
みんなが呆気にとられる中、会場の中央まで進み出た孫権は、傍らの周泰に衣服を脱ぐよう命じます。
「あぁ……っ!」
するとその全身には、歴戦の中で刻み込まれた無数の傷が、ビッシリと輝いています。
「皆の者……よく見るがいい」
孫権は、周泰の傷を指さして、「この傷は、ドコソコの戦いでついたもの」と解説を始めました。斬り傷、刺し傷、えぐり傷……そこにはかつて、山越族に包囲された絶体絶命の窮地から孫権を護り抜いた時の傷も含まれています。
解説を進める内、孫権はもちろん、周泰も、そして会場の誰一人として涙せぬ者はありませんでした。
傷だらけになりながら、文字通り命がけの奉公を果たした周泰に、その忠義と痛みを細大漏らさず覚えている孫権。果たして自分は、傷の一つ一つを覚えてもらえるほど、身体を張って奉公してきただろうか。
「……余が今あるのは、幼平のお陰……皆の者も、そのことをよく覚えておいて欲しい」
つまらない事にこだわって、大切なことを忘れていた……徐盛や朱然はそんな己を恥じて、それ以来は周泰によく従い、彼以上の働きをしようと忠勤に励んだということです。
※参考文献:
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』ちくま学芸文庫、1994年3月
羅漢中『三国志演義 1 (角川ソフィア文庫)』角川ソフィア文庫、2019年6月
金文京『中国の歴史04 三国志の世界(後漢 三国時代)』講談社、2005年7月
この記事へのコメントはありません。