「三国志」には実に千人以上のキャラクターが登場しますが、そこには英雄豪傑ばかりでなく、いわゆる「ならず者」も少なからず混じっています。
歴史を紐解けば、むしろそっちの方が多いのですが、そういう者たちは現代社会と同じく「日陰の身」であり、主人公たちに蹴散らされる「かませ犬」な結末がほとんどです。
でも、そうしたマイナー武将がストーリーの片隅で暴れ回る姿は、見ていてなぜか応援したくなってしまう不思議な魅力が感じられます。
そこで今回は、三国志の「ズッコケ4人組」が魅せた?ロクデナシな暴れっぷりを紹介しましょう。
目次
ズッコケ4人組、黄巾党の乱に乗じて「白波軍」旗揚げ
時は後漢末の中平元184年、黄巾党(こうきんとう)の乱に乗じて謀叛の兵を挙げた韓暹(かん せん)らは、「白波(はくは)軍」と称して河東郡(現:山西省南部)一帯で暴れ回りました。
「よっしゃあ!ドサクサに紛れて食いもんブン奪(ど)って来ようぜ!」
「せっかくだからチーム名を決めようぜ!」
「黄巾党……黄色……黄河……『白波※』軍ってのはどうだ?」
「なるほど。俺たちはさしずめ、氾濫(叛乱)する黄河(黄巾党)のほとりに立ち起こる白波ってところか」
「黄巾党のドサクサなんだから、言い得て妙ってモンさ」
「けけけ……違(ちげ)ぇねぇや……」
※その語源については、河西の白波谷(現:山西省)を本拠地としたから、という説が有力です。
白波軍の頭領は韓暹を総大将として、楊奉(よう ほう)、李楽(り がく)、胡才(こ さい)の4名。こういう乱痴気騒ぎのお約束として「世直し」を掲げているものの、やる事と言えば略奪や身代金取引(拉致)……要するにただの賊徒に過ぎません(だから、人々からは白波賊と呼ばれました)。
やがて「本家」黄巾党がおおかた鎮圧された後も、討伐が及ばないのをいいことに好き放題暴れ回っていた白波賊ですが、楊奉が初平三192年に首都・長安(現:陝西省西安市)を占領した李寉(り かく)にスカウトされます。
「へへっ、悪ぃな大将。俺ァ一抜けるぜ」
楊奉は涼州北地郡(現:甘粛省)の出身で、李寉とは同郷のコネがあったのでした。
「だったら俺たちも誘ってくれよ!」
「そうだよ、冷てぇな!」
「まったく薄情なヤツめ!」
「けけけ……何とでも言いやがれ。ま、落ち着いたらお前ェらも呼んでやらぁ……けけっ」
とまぁ、後足で砂をかけるように白波賊を抜けた楊奉ですが、実は李寉が自分たちの排斥を目論んだ王允(おう いん)と呂布(りょ ふ)を憎んでおり、彼らが共に并州(現:山西省北部)出身だったため、同じ并州人である韓暹を誘えなかったのです。
李寉の暗殺に失敗した楊奉、長安を脱出した献帝の護衛に
さて、李寉は王允を八つ裂きにして呂布を追い出し、同僚の郭汜(かく し)と共に長安で好き勝手していたのですが、そこへ呼ばれた楊奉は早くもうんざりしてしまいます。
と言うのも、李寉は物事を決めるのに巫女のお告げを重んじており、彼女たちの方が厚遇されるのです。これじゃァやってらンねぇや、と同輩の宋果(そう か)と組んで、李寉の暗殺を共謀するもあっけなく発覚。
「やべっ……ヅラかるぞ!」
逃げ遅れた宋果は処刑されてしまい、絶体絶命の楊奉はヤケクソで謀叛の兵を興し、命からがら長安を脱出。
「やれやれだぜ……しかし、あンだけ大口叩いちまった以上、今さら古巣へは戻れねぇなぁ……」
生き残った僅かな手勢を連れて長安郊外を(略奪しながら)ウロチョロしていた楊奉は興平二195年、長安を脱出した献帝(けんてい。劉協)ご一行を目撃します。
「おっ、これはチャンス!」
献帝は李寉の親分だった董卓(とう たく)によって擁立された皇帝で、董卓が王允らによって暗殺された後、李寉らによって軟禁状態に置かれていました。
すると、楊奉の謀叛をキッカケに李寉と郭汜が仲違いを始めたので、そのドサクサ紛れて旧都・洛陽(現:河南省洛陽市)を目指したのです。
「天子様にお供すれば、一発逆転できるかも知れねぇ」
さっそく楊奉はご一行を襲撃……もとい護衛を申し出ました。
「道中は危ねぇですから、あっしらが護衛いたしやすぜ……けけけ」
どう見てもお前らの方が危ないだろう……と言いたかったでしょうが、背に腹は代えられない、と献帝の側近である董承(とう しょう)は、この胡散臭い連中を受け入れ(ざるを得ず)、ひたすら洛陽を目指すのでした。
韓暹らが合流、李寉らの追手から逃げ延びる
「……ってな訳でよぉ。俺ァ今度、天子様の側近に取り立てられたンだ(いいだろ~けけけっ)。昔の誼(よしみ)で仲介してやッけど、良かったら来ねぇか?」
韓暹の元に届いた楊奉からの書状には、そんなことが書かれていました。
「……てなこったが、お前ェらどうする?」
「まぁ、楊奉の野郎は気に入らねぇが、天子様の護衛ってのは旨みがありそうだな」
「そうさな、とりあえず行ってみンべぇよ。気に入らなかったら皆殺しにすりゃ、腹の足しくらいの人肉(にく)にはなンべぇ」
かくして白波賊の一軍が合流地点にやって来ると、そこには李寉と郭汜の大軍に追い立てられる献帝ご一行様の姿が見えます。
「お前ら、何が護衛だ……この役立たず!」
「うるせぇ!死にたくなかったら、天子様を担いでとにかく走れ!」
楊奉は董承と一緒になって献帝を必死に護衛しつつ、命からがら渡河地点までやって来ると、そこには船を用意しておいた韓暹たちが待っていました。
「おい、船を調達したぞ!天子様を早く乗せるんだ!」
「おぉ……お前ェら来てくれたか、ありがてぇ。持つべきモノは何とやらだな!」
「まったく調子のいいヤツだ……さぁ、船を出せ!」
間一髪で出航した献帝の船に、乗り遅れた献帝の家来たちが必死にすがりつきます。
「待ってくれ……私たちも乗せてくれ!」
「こら、てめぇら邪魔するンじゃねぇ!」
「俺たちの目当ては天子様だけ……お前ェらなんて、どうでもいいんだよ!」
無情にも船の上から李楽や胡才が矛を振るい、すがりつく者たちの手をスパンスパンと斬り飛ばしました。
「ぎゃあ……っ!」
「助けを求める者に、何てことをするんだ!」
董承が抗議するも馬耳東風……となっていますが、それは小説『三国志演義』での話で、史実(三国志、後漢書)では船にすがる者たちの手を斬り飛ばしたのは董承となっています。
(まぁ、小説『蜘蛛の糸』に見るまでもなく、人間切羽詰まれば仲間を見捨てるくらいしてしまいがちなものです)
ともあれ這々(ほうほう)の体で河を渡り、李寉たちの追手から逃げ延びた献帝は、楊奉たちに官位を与えました。
上位から楊奉は車騎将軍、韓暹は征東将軍、胡才は征西将軍、李楽は征北将軍となっていますが、身分不相応な高位は「位撃ち(くらいうち。能力や実績以上の重責を負わせて失脚を狙う呪いの一種)」だったのかも知れません。
楊奉は「天子の御車にすがりついて(騎)ばかりの役立たず」、韓暹は「さっさと東(洛陽)へ連れていけこの役立たず」、胡才は「踏みとどまって西からの追手(李寉ら)を防げこの役立たず」、李楽は「護衛の任務に『背き、逃げよう(北)』としただろうこの役立たず」……などと董承あたりが考え、献帝に(位を授けるよう)進言したのでしょうか(もちろん、表向きは笑顔で)。
献帝を曹操に奪われ、廃墟の洛陽に取り残される
「……やれやれ、やっと洛陽に着いたわい」
一年ばかりの紆余曲折逃を経て建安元196年、どうにか洛陽への入城を果たした献帝ご一行ですが、かつて董卓に焼き払われてしまった旧都の姿に愕然とします。
「もう、食うモノも残ってない……」
ちょっとくらい復興していて、誰か食糧とか献上してくれないかな、と期待していた一同ですが、そんな淡い期待もあっけなく打ち砕かれてしまいました。
「これじゃ、飢え死にするしかないな……」
「やっぱり天子様を殺して食っちまうしか……」
などと不穏な空気に包まれる一同の元に、晋陽侯の張楊(ちょう よう)がやって来ました。
「あ、いたいた……陛下~!皆さ~ん!食糧などお持ちしましたぞ~!」
この張楊、前に一度献帝の護衛として并州より馳せ参じ、その忠義から安国将軍に任じられたのですが、楊奉や董承から(楊奉は「いけ好かねぇ」から、董承は「お株を奪われる」からと)ハブにされてしまいます。
しかし、一度は離脱したものの「やっぱり陛下が心配だから、食糧や衣類を持って行ってあげよう」と戻って来たのです。基本的にお人よし……もとい、忠君愛国の英雄と言えるでしょう。
「ケッ……戻って来やがったのか……でも食い物は頂くぜ旨ぇ旨ぇ」
「どうする?張楊の野郎、頭も育ちもいいから、俺たちの立場がなくなっちまうぞ旨ぇ旨ぇ」
「なぁに、隙を見てブッ殺しゃいいのさ旨ぇ旨ぇ」
「だったらさっさと殺(ヤ)っちまおうぜ旨ぇ旨ぇ……」
しかし、そんな小悪党どもの動きはお見通しで、張楊は腹心・董昭(とう しょう)を通じて曹操(そう そう)と連絡をとり、速やかに献帝を曹操の本拠地である許昌(現:河南省)へ連れ去ってしまいました。
胡才、李楽と喧嘩別れ、曹操に追われて袁術の元へ
「……何てこった!」
ドヤ顔で洛陽の街を闊歩していた白波族ご一行様は、帰宅してから「献帝が曹操の元へ連れ去られた≒自分たちは洛陽に取り残された」ことを知り、廃墟の中で途方に暮れます。
「今から追い駆けて、天子様を奪い返せばいいじゃねぇか!」
「そうは行かねぇ。前は『天子様を護衛する』大義名分があるからどこまでもついて行けたンであって、今はあくまで『洛陽の警護』が任務だ。命令に背けば、逆賊として退治されちまわぁ」
そんなごく「常識的」な韓暹の言葉を聞いて、胡才と李楽は愛想を尽かしてしまいました。
「けっ、何が『洛陽の警護』だバーローめ。頭領も大将軍(笑)に出世した途端、えらく丸くなっちまったモンだぜ……あぁバカバカしい。俺は河東に帰って盗賊稼業に戻るとするぜ」
「俺もだ。征北将軍なんて肩書じゃ、腹は膨れねぇからな……ま、お前らはせいぜいこの廃墟で、飢え死にするまで警護の任務(笑)に励むんだな……あばよ!」
旗揚げから共に暴れ回ってきた仲間たちに見捨てられた韓暹と楊奉は、わずかな仲間と共にしばし呆然とするのでした。
「……で、どうすンだよ」
「どうするって、何が?」
「あのな……天子様がいなくなった以上、俺たちの『大将軍』だとか『車騎将軍』なんて肩書は意味がなくなっちまったンだよ。このまま『洛陽の警護』なんてしていても、俸禄にゃ与(あずか)れねぇよ」
「つまり、陛下は俺たちを見捨てたってことか……」
「まぁ、そうなるな……で、改めてどうすンだ。廃墟を見回(さまよ)って飢え死にしたところで、誰も褒めちゃくれねぇぜ?」
「仕方ねぇ……『俸禄は自己調達』これで行こうか!」
という訳で、カタギに戻る道を諦めた韓暹と楊奉は、自暴自棄で暴れ回っていたところ曹操に討伐されてしまい、ボロボロになって寿春(現:安徽省)まで逃げ延び、袁術(えん じゅつ)の元へ転がり込んだのでした。
ズッコケ4人組の末路
「ほっほっほ……事情はよう解った。そなたらの如き忠勇の将軍を見捨てるなど愚の骨頂……もはや漢王朝に未来などない!」
韓暹と楊奉を受け入れた袁術は、建安二197年に仲(ちゅう)王朝の建国を宣言。二人はその臣下として大いに武勇を奮いますが、いかんせん袁術がケチだったため待遇は悪く、不満を募らせていました。
「何だよ、結局どいつもこいつも……」
「ここもそろそろ、潮時かも知れねぇなぁ……」
そんな二人が先鋒となって、(前に長安から脱出した)呂布の占領していた徐州(現:江蘇省北部)を攻略するべく遠征した時のことです。
「あなたがたは、もっと評価されるべき……」
やって来たのは呂布の謀臣・陳珪(ちん けい)。言葉巧みに誘われた二人はアッサリ寝返って袁術軍を散々に引っ掻き回した挙げ句、呂布への手土産として、部将十数名を血祭りに上げます。
「これだけ武勲を立てれば、きっと恩賞もたんまりだろうぜ!」
「けけけ……楽しみだなぁ……」
しかし、二人が歓迎されたのはたった数日で、間もなく「外敵に備えるため」として二人はバラバラに配置されます。陳珪は徐州のために呂布を自滅させ、旧主・劉備(りゅう び)を呼び戻そうと考えており、有力な二人を呂布から遠ざけたのでした。
「「ふざけるな!こんな俸禄でやっていけるか!」」
それぞれの任地で窮乏した韓暹と楊奉は、やっぱりいつも通りの略奪に走り、あまりの乱暴狼藉を見かねた劉備によってそれぞれ討ち取られてしまいました。
一方、洛陽で喧嘩別れして河東郡へ帰り、盗賊稼業を再開した胡才と李楽ですが、些細な怨恨(おおかた戦利品の配分など)によって李楽が胡才を殺し、その李楽も官憲の追手から逃げ回る中、寂しく病死したそうです。
かくして全滅した「白波賊」ですが、これがどうしたことが海を隔てた日本では白浪(しらなみ)≒盗賊を表わす言葉となり、安政元1854年「都鳥廓白浪(みやことどり ながれのしらなみ)」をはじめ、歌舞伎のジャンル(白浪物)として親しまれています。
およそロクでもないズッコケ4人組でしたが、「三国志」世界にはこういう名脇役?たちがゴロゴロしているので、皆さんもお気に入りのマイナー武将を見つけて欲しいと思います。
※参考文献:
井波律子『三国志演義』ちくま文庫、2003年8月
陳寿『正史 三国志』ちくま学芸文庫、1994年3月
渡邉義浩『三国志事典』大修館書店、2017年5月
仙石知子ら『三国志演義事典』大修館書店、2019年6月
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