中国の歴史を語る上で外せない重要アイテム
正史の活躍を関羽に奪われ、演義では正史以上に壮絶な死に様で退場とあまりいい扱いを受けていない孫堅だが、正史でも演義でもある重要なアイテムを手に入れている。
それが「伝国璽」と言われる印章(ハンコ)だ。(ここでは基本的には「玉璽 : ぎょくじ」と表記する)
『横山三国志』では「玉璽を持った者は皇帝を名乗れる」と大袈裟に描かれ、当時中学生だった筆者は無邪気に信じたものだが、多少話を盛っているとはいえ、玉璽は中国の歴史を語る上で外せない重要アイテムであるのも事実である。
今回は、皇帝の証として受け継がれて来た玉璽を解説する。
金よりも価値のある「玉」
織田信長による「天下布武」の印章など日本でもハンコ文化は今日まで長く受け継がれているが、玉璽は「玉(ぎょく)」という石に彫ってあるのが他のハンコと違うところである。
「玉」とは宝玉の総称で、広い意味で「翡翠 : ひすい」を指す事が多い。
日本では新潟県が翡翠の産地として知られているが、中国では漢民族の住む中原で翡翠は多く取れず、崑崙(パミール高原)やホータンといった翡翠の産地から取り寄せていた。(厳密にいえばネフライトにジェダイトといった違いはあるが、細かい説明は省く)
翡翠はそれだけ貴重な品であり、金や銀よりも上の素材として権力者の証として使われるようになっていった。
「璽」とは印の中でも上位(天子)を示すものであり、最大級の価値があった玉で作った印は「玉璽」となる訳だ。(玉を翡翠とするなら色は緑や白に近いため、見た目は金や銀の印よりも地味だと思うのだが、当時の価値観では地味でも玉が最上位だった)
玉璽の始まりだが、「始皇帝が霊鳥の巣から発見した宝玉で印璽を作った」という伝説じみた文章しかないため、正確な玉璽の起源は不明である。(始皇帝が元祖なのは間違いないので普通に交易で手に入れた玉から玉璽を作ったのだと思うが、大袈裟に話を盛るのも歴史書らしい)
なお、皇帝より地位が下である諸侯には金属製の印が皇帝から与えられた。(ランクは上から金銀銅)
まだまだ謎が多いが印として忘れてならない「漢委奴国王印」は、金95.1%と9割以上が金で出来ており、受け取った人物のランクは「王」の称号を授かっているため相当高かったと思われる。
ちなみに現物が存在しないため今日では伝説のアイテムとなっているが、魏志倭人伝に書かれている「曹叡から卑弥呼に贈られた」という「親魏倭王」の印も金で出来ていたとされている。
玉璽の使い方
皇帝及び、高位の者の証として広まった印章だが、当然ながらただ持っているだけの飾りではない。
織田信長の例を出したように、玉璽には書類の決裁として使われるハンコの用途もあった。(皇帝が玉璽を押して初めてその国の公文書として成立するため、むしろそれが正しい使い方である)
今でこそハンコ=赤(朱肉の色)というイメージがあるが、当時は使う色によって身分が分かれており、上から
黄赤(橙)
赤
緑
紫
青
黒
黄
青紺
と、色によってどの地位の人間が決裁を行ったか、一目で分かるようになっていた。
勿論、印章によって判を押された公文書は外交にも使われ、日本に送られた金印を押した書簡を中国に送れば、中国側も正式な文章として受け取る事になる。
それだけ、印鑑は重要な役割を担っていたのだ。
玉璽の行方
三国志で最も玉璽が注目されるのは、反董卓連合を巡る戦いで 孫堅が発見したとされる件だ。
孫堅は董卓が廃墟にした洛陽に入ると、井戸から五色の気が立ち上っているとの報告を受ける。(しつこいが、昔の人が盛った話なので大袈裟な描写に関する信憑性を気にしてはならない)
捜索を命じた井戸から発見されたのは、皇帝の証とされる玉璽だった。
ここで気になるのは何故玉璽が井戸にあったのかという事だが、宦官と外戚の権力争いの影響から張譲が少帝と劉協(後の献帝)を連れて洛陽から逃げ出した時に井戸に投げ込まれたという。(つまり、董卓が現れる前から玉璽は行方不明だった)
「権力に目がない董卓は玉璽を欲しがらなかったのか?」という疑問が生じるが、力こそ正義という自らの価値観と、それを世に示すのに玉璽は必要なかったと考察する。(勿論、董卓も玉璽を探したが発見出来なかった可能性もあるが、献帝が玉璽を持たずに即位した事は異例の事態だったのも事実である)
孫堅が手に入れた玉璽の行方だが、現物が存在しないため正史に書かれた内容を辿るしかない。
孫堅伝の注にある「山陽公載記」によると、孫堅の夫人を拘留して奪ったとあるが、信憑性は正直怪しい(孫権が即位する正統性を持たせるための)ものであり、後漢書では徐璆(じょきゅう)が袁術の死後に発見したとあるが、伝説の仲王朝でハチミツ皇帝が即位した時に本当に玉璽を持っていたかも不明である。
演義のように孫堅の死後も孫策が玉璽を持っていて、玉璽と引き換えに袁術から独立のための兵を借りたなら全ての辻褄が合うのだが、真相は謎のままである。
玉璽のその後
董卓の登場前に失われた玉璽は、孫堅が手に入れ、後に袁術の元に渡り、ハチミツ皇帝の死とともに献帝の元に戻ったとされている。
その後は、隋、唐といった歴代王朝に受け継がれ、946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に紛失したのが最後の記述だが、実は呉で代々受け継がれており最後の孫皓が晋に渡したという説もある。
同じ時代に皇帝が三人も存在した三国時代があるのだから、玉璽とされるものも複数存在したと考えれば玉璽がいくつも存在する事に関する矛盾はなくなるが、当時でも玉璽を見た人はほとんどおらず、それが本物であると証明する事は不可能に近かった。
皇帝の証とされる玉璽だが、今でも謎の多い超レアアイテムである。
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