三國志

【三国志】 劉備の息子『劉禅』の暗愚すぎるエピソード 「無類の女好き、救いようのない阿斗」

劉備の息子『劉禅』の暗愚すぎるエピソード
今回は、シミュレーションゲームの『三国志』をプレイしたことがあるという方にとって見慣れた数値を取り上げつつ、劉備の息子『劉禅』について語っていく。

近年では劉禅に対する見直しの動きもあるが、ここではあえて「なぜコーエーにひどすぎるパラメーターを割り当てられているのか?」について掘り下げていきたい。

劉備の息子『劉禅』とは

劉備の息子『劉禅』の暗愚すぎるエピソード

画像 : 劉禅 public domain

まず、劉備の息子『劉禅』とは、どういった人物なのだろうか?

姓・諱:劉禅
:公嗣
幼名:阿斗
生年:207年~271年(65歳没)
在位期間:40年(223年6月10日~263年12月23日)
:劉備
:甘夫人
后妃:敬哀皇后と張皇后など他多数
死因:自然死
三国志14のパラメーター:統率3、武力5、知力9、政治4、魅力68

皇帝でいた期間は40年とかなり長いが、パラメーターが完全に死んでおり、『三国志』というシミュレーションゲームにおいては完全な「お飾り的存在」として扱われているのだ。

唯一ポイントが高い点としては、あの時代で65歳まで生きたことであり、しかも死因が自然死と、ガッツリと生涯を満喫していることであろう。

こういった要素が重なり、今やすっかり暗愚キャラとして定着している。

また、どのシリーズの三国志でも「やる気のない顔」をしたイラストになっており、動画内の三国志14の劉禅も、パッと見で「コイツなんかダメそう・・・」という面構えになっている。

劉備の息子『劉禅』の暗愚エピソード① 救いようのない阿斗

劉備の息子『劉禅』の暗愚すぎるエピソード

画像 : 漢王朝の復興を志した劉備。public domain

なぜこんな暗愚キャラになってしまったのか? 代表的なエピソードを紹介していく。

東晋時代に書かれた歴史書『漢晋春秋』には、『扶不起的阿斗(救いようのない阿斗)』と記されており、簡潔に言うと以下のような流れとなっている。

劉禅は魏に降伏して、魏の首都である洛陽に移り住む。
移送された後に歓迎会のような宴会が開かれる。
その場で故郷の蜀の音楽が流れる。
蜀の武将たちは故郷を想い涙を流すが、劉禅は笑って歓迎会を楽しみ続ける。
それを見た司馬昭が「君、故郷の蜀は恋しくないのか?」と問いかける。
劉禅は「ここは楽しいから恋しくはない!故郷を思い出すこともない!」と発言し、蜀の旧臣を中心に周りにいる人達をドン引きさせる。
慌てた蜀時代の側近である郤正が「『先祖の墓も蜀にあるのだから、1日として思い出さないことはない』と発言すべき」とアドバイスする。
司馬昭はそれらの会話が全部聞こえていたが、あえてもう一度「君、故郷の蜀は恋しくないのか?」と問いかけてきたので、劉禅はアドバイス通りに「先祖の墓も蜀にあるのだから、1日として思い出さないことはない」と発言する。
この発言を聞いた周りの人達は大爆笑したが、司馬昭はあきれて「こんな男が君主では諸葛亮が生きていてもどうしようもない、蜀の滅亡は回避不可能だった」と評した。

このエピソードから「救いのない阿斗」ということわざが誕生し、この『阿斗』から『阿呆』に派生したという説すらあるぐらいだ。

劉備の息子『劉禅』の暗愚エピソード② 無類の女好き

劉備の息子『劉禅』の暗愚すぎるエピソード

イメージ画像 ※leonardo.ai

次は「無類の女好きだった」というエピソードだ。

前述したプロフィールには、后妃は『敬哀皇后と張皇后など他多数』と記載したが、どうもこの「他多数」が、かなり多かったようである。

劉禅はとにかく美人好きで、見初めた女性をとにかく後宮に連れ込もうとしていた。
しかし、諸葛亮からお目付役とされていた董允が、それを阻止していたようだ。

ただし、この時の止め方が「古来より天子の妃は12人を超えたことはありません。どうかおやめください」だったので、劉禅は12人以上連れ込もうとしていたのである。

劉備の息子『劉禅』の暗愚エピソード③ 洛帯古鎮

画像 : 洛帯古鎮 photoAC

このエピソードは少し長いので、また箇条書きにて解説する。

成都の龍泉山のふもとにある『八角井戸』には東海から来た魚が泳いでおり、それを食べると長生きするという逸話があった。
この逸話を聞いた劉禅は、その魚を欲して部下を連れてその井戸に行った。
部下に魚を捕まえさせようとしたがうまくいかず、イライラしているとその場で金の魚を釣り上げた老人がいた。
その老人の元に部下を行かせて手に入れようとしたが断られ、権力を使って強引に魚を奪った。
得意満面に魚自慢をする劉禅だったが、転んで井戸の中に魚と一緒に落ちた。
落ちた拍子に魚には逃げられ、さらに帯も落とした。
部下に引き上げられたが、魚に逃げられたり帯を落としたことで怒りが収まらず、その怒りを老人に向けようとした。
しかし、すでにその老人はその場におらず、手ぬぐいだけが残されていた。
その手ぬぐいには「事を始める時、自分だけ難を避けるのは無責任である。帯も落とし、帝の運ももはやこれまでである」と記載してあり、劉禅は激怒した。
劉禅は怒りのままにその手ぬぐいを八角井戸に放り込んだ。すると手拭いと玉帯が井戸内の東海に通じる穴を塞いでしまい、井戸そのものが使えなくなった。

まさに暗愚っぷりを象徴するようなエピソードである。

今回は3つしか紹介できなかったが、劉禅にはこういったエピソードが大量にあるのである。

民間伝承による逸話も多いため、誇張や創作されたものも多いと思うが、いずれにせよ劉禅の評価は覆らなそうである。

参考 : 『漢晋春秋』

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 三国時代の最強馬 「赤兎馬」は本当に実在したのか?
  2. 『三國志14』をクリアしてみた ~感想編~ レビュー
  3. 劉備と関羽の本当の関係 「一緒にいた期間は実は少なかった」
  4. 【三国志】女性武将は本当に存在したのか? 〜馬超を退けた女性「…
  5. 三国志で「一騎打ち」は本当にあったのか? 【呂布vs郭汜、馬超v…
  6. 「正史三国志」と「三国志演義」で活躍に違いがある人物
  7. 【三国志で活躍した名馬たち】 赤兎馬だけではなかった
  8. 関羽の娘「関 銀屏」は実在したのか? 「ゲームでブレイクした軍神…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【世界初の軍縮条約】ワシントン海軍軍縮条約はなぜ締結されたのか?

世界初の軍縮条約ワシントン海軍軍縮条約は、1922年(大正11年)にアメリカ、イギリス、イタリア…

これぞ武士道!鳥居元忠を討った雑賀重次と元忠遺児・鳥居忠政の感動的な交流【どうする家康 外伝】

時は慶長5年(1600年)8月1日、鳥居元忠の守る伏見城が石田三成らの大軍によって攻め落とされてしま…

江戸城について調べてみた【三代の大改修】

最初に、江戸城の創建について触れておこう。江戸城の起源をたどると、1457年(康正3年)に太田道灌(…

鉄甲船を率いて毛利水軍を破った武将・九鬼嘉隆

海賊大名の異名九鬼嘉隆(くきよしたか)は、戦国時代から安土桃山時代に織田信長・豊臣秀吉に…

「ブギウギ」 スズ子のモデル・笠置シヅ子に引退を決意させたものとは

愛助の母・村山トミから「歌手をやめるのが結婚の条件」と言われたスズ子。スズ子のモデル・笠置シ…

アーカイブ

PAGE TOP