皇族の座を拒否した男
天下を狙って多くの人物が現れては消えた後漢末期、皇帝の座を拒否した劉虞(りゅうぐ)という男がいた。
漢の正統な家系というこの上ない血統に加え人望もあり、後漢を代表する名族の袁紹から皇帝即位を持ち掛けられるなど、天下を取れる位置にあった劉虞は何故自らそのチャンスを手放したのか。
今回は、幻の皇帝候補となった劉虞を紹介する。
正統な血を引く皇室の末裔
演義の出番がほとんどないため知名度が高くない劉虞だが、その血筋は本物で、光武帝の長男で東海恭王を名乗った劉彊(りゅうきょう)の子孫である。
少し話題を変えて劉備の家系の解説をすると、劉備は6代皇帝景帝の息子である劉勝の子孫を名乗っているが、劉勝は50人の子がいて孫も含めると120人にも及ぶ超大家族で、名乗ろうと思えば皇帝の子孫を名乗れる状況だった。
劉勝の家系で分かっている事を辿ると、劉勝の息子の劉貞は涿県に赴任して、後に失脚したが、その後も現地に定住したという記述があるだけだ。
皇帝の息子の劉貞が地元の涿県に定住した → 涿県の何処かに子孫がいる → それが自分である
というのが劉備の主張と根拠となっているが、劉貞以降の子孫は不明であり、仮に劉備が劉貞及び劉勝の子孫だったとしても祖父の劉雄までの200年間の記録がないのだから、正史に劉勝の子孫と書かれていても「自称」でしかなく、信憑性に疑問が残る。(演義では劉貞から劉雄→劉弘→劉備に至るまでの家系図が読み上げられているが、それはフィクションである)
勿論、劉備の言葉が嘘である証拠もないので完全に否定する事も出来ないが、超子だくさんで、元を辿れば中山靖王、劉勝に辿り着くかも?という曖昧な存在だった劉備と違い、劉虞ははっきりとした家系の記述が残っている、正統な血筋であった。
出世街道
最初は地方の役人からスタートした劉虞は、皇族という立派な家柄に胡座をかかない真面目な仕事ぶりが評価されて順調に出世を重ね、幽州刺史に就任する。
政治家としての劉虞は清廉潔白で善政を敷き、更には幽州を荒らしていた異民族を交渉と人柄で懐柔させる、見事な手腕を披露する。
その後、病気を理由に幽州を離れ故郷に戻った劉虞だが、揉め事が起こると人々は裁判所ではなく劉虞に裁きを求め、劉虞の決定に従ったという。
皇帝即位を拒否
184年に黄巾の乱が起きると、甘陵国の相に任命された劉虞は倹約を軸にした政策とその人柄で、荒れた地を安定させる。
一旦は中央に戻った劉虞だが、187年に中山太守の張純が反乱を起こすと、幽州牧に任命されて乱の鎮圧に向かう。
この乱には烏桓の丘力居も加担していたが、異民族と刃を交える事なく懐柔した劉虞の名は異民族の界隈で響き渡っており、丘力居はあっさり劉虞に降伏してしまう。
協力者を失った張純軍は呆気なく崩壊して、張純も味方の裏切りで討たれてしまった。
反乱鎮圧の戦果を挙げた劉虞だが、今度は董卓が支配する、後漢最大の混乱がやって来る。
袁紹を盟主とした反董卓連合が失敗に終わると、次の策として袁紹は皇室の出身で、人望もある劉虞を皇帝にしようと話を持ち掛けたのである。
今思えば複数の皇帝で争う天下三分(二分)の計を先取ったようなアイデアだが、自分はあくまで漢の臣であるという意識の強い劉虞には天下を狙う意思も皇帝への興味もなく
「国の恩に報いようとしている私には出すぎた事である」
と袁紹の誘いを拒否する。
袁紹を後ろ楯に劉虞が皇帝になるルートはifとして考察したい世界線だが、皮肉にもこの漢への忠誠心と人望の厚さが自身の寿命を縮める事になるのである。
劉虞にとっては運命の分かれ道だった。
幻の皇帝候補の最期
皇帝の座を固辞した劉虞だが、この一件により公孫瓚(こうそんさん)との関係が悪化する。
かねてから公孫瓚は袁紹と争いを繰り広げていたが、自身の領地が劉虞の統治する幽州にあった事もあり、劉虞から兵糧を減らされるなど、自由に兵を使えない事に不満を持っていた。
立場としては地域の長である公孫瓚より州の統治者である劉虞の方が上だったが、関係修復のための話し合いを持ち掛けても会おうとしない公孫瓚に対し、劉虞は「白馬長史」と謳われた武力と反乱を恐れるようになる。
そして劉虞は異民族と連携して、10万にも及ぶ公孫瓚討伐の軍を出したのである。
両者の関係が最悪だった事は間違いないが、公孫瓚が乱を起こそうとしたとは書かれておらず、配下の程緒は大義名分のない戦いを止めようと反対する。
だが、劉虞は「軍の士気を下げた」と程緒を斬首して、むしろ自軍の士気を下げる悪手を打ってしまう。
かつて項羽率いる楚軍3万が劉邦の漢軍56万を打ち破った例があるとはいえ、10万という数は桁外れである。
数をアピールして公孫瓚に降伏を迫ればそれで終わっていた可能性が高かったが、劉虞は「狙うは公孫瓚の首のみ、他の者(特に民)を傷付けてはならない」という無茶な命令を出したため、籠城した公孫瓚軍を前に劉虞軍は何も出来ない烏合の衆となる。(桶狭間の戦いに於ける織田信長も同じような事を言っているが、地上戦だった桶狭間の戦いはともかく、民を盾に籠城した公孫瓚に対してその命令は戦闘放棄と同じだった)
劉虞軍が攻められても抵抗しない事が分かると公孫瓚は攻撃を仕掛け、サンドバック状態となった劉虞の軍は完膚なきまでに叩きのめされ、劉虞もついに捕らえられてしまう。
何もしなくても勝てるイージーゲームだったはずなのに、アドバンテージを自ら手放して負けに行く戦下手ぶりは将として致命的だったが、為政者としての劉虞の手腕と人望によって民からは劉虞の命を助けて欲しいと嘆願が殺到した。
そこで公孫瓚は「帝と称するなら雨を降らせられるはず」と、劉虞に無茶な取引を持ち掛けた。
時期は真夏であり、結局雨は降らずに劉虞は斬首されてしまったのである。
公孫瓚は「皇帝を僭称しようとした賊」と呼んだが、民からも異民族からも慕われた劉虞を殺した事は安定していた異民族との関係を悪化させるなどマイナス要素しかなく、公孫瓚にとっても悪手だった。
劉虞が皇帝になっていたら
もし劉虞が皇帝になっていたら、歴史は変わったのだろうか。
袁紹がどの程度劉虞を利用しようとした(果たして劉虞の天下になったら裏切ろうとした)のか、という疑問はあるが、董卓を除けば最大の勢力で天下人候補筆頭だった袁紹が劉虞と力を合わせれば本当に天下を取れていた可能性は高かった。
政治を劉虞、軍事を袁紹に分担すれば隙のない大勢力が出来上がったはずである。
歴史的にあまり知られていない劉虞の皇帝即位拒否だが、実現していれば中国の歴史を大きく変えていた、隠れた一大事件だった。
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