安土桃山時代

真田 vs 徳川 「上田合戦(第一次・第二次)」について解説

上田合戦とは

上田合戦(うえだかっせん)とは、信濃国の上田城(現在の長野市上田市)とその近隣周辺の山城、上田を流れる神川付近などで行われた、真田氏徳川氏の戦いの総称である。

この地で両者の戦いは2度行われ、天正13年(1585年)の戦いを第一次、慶長5年(1600年)の戦いを第二次と区別する。

信濃の国衆で武田信玄武田勝頼に仕えた名将・真田昌幸率いる小大名・真田氏と、戦国時代を代表する大大名・徳川氏との2度に及ぶ戦い「上田合戦」について解説する。

真田昌幸とは

上田合戦

幸村の父・真田昌幸

真田昌幸(さなだまさゆき)は、甲斐国の武田信玄の家臣で信濃先方衆となった地方領主・真田幸隆の三男として天文16年(1547年)に生まれた。
7歳で武田家の人質として甲斐国へ下り、信玄の奥近習に加わり信玄の母系・大井氏の氏族である武藤氏の養子となって、武藤喜兵衛と称して足軽大将に任じられた。

初陣は永禄4年(1561年)15歳の時の第四次川中島の戦いとされ、その後も信玄の下で活躍し、父・幸隆と兄の信綱・昌輝と並び武田二十四将にも数えられた。
信玄の側に仕え、外交や内政、あらゆる戦略・戦術を実践で学ぶことで、昌幸は信玄の良い部分を多く吸収したのである。

元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕える。
天正3年(1575年)の長篠の戦いで真田家の長兄・信綱と次男・昌輝が討死したために昌幸は真田家に復して家督を相続し、武藤家の家督は武藤一族の武藤常昭が継承した。

信玄は昌幸を「わが眼の如し」と信頼、のちに豊臣秀吉は「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と警戒、徳川家康は「稀代の横着者(きだいのおうちゃくもの)」と嫌気したという。

天正壬午の乱

天正7年(1579年)昌幸は勝頼の命令で北条氏政の所領であった東上野の沼田領へ侵攻、調略によって切り崩し叔父・矢沢頼綱に沼田城を攻めさせた。
その後、名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて両城を手に入れた。

これらを拠点として沼田城を攻撃したが、北条氏邦が援軍に駆け付けたために撤退、翌年沼田城への攻撃を再開して沼田城を開城させた。
天正9年(1581年)元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図るも昌幸は家臣・金子泰清に命じて沼田景義を討ち取った。

天正10年(1582年)織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始されると武田領への本格的な侵攻が行われ武田家は滅亡、北条氏も真田領を脅かしていた。

武田家滅亡後、昌幸は織田信長に臣従し滝川一益の与力武将となり次男・信繁(幸村)を人質に出し、沼田城には滝川益重が入った。
しかし織田氏に属して3か月の6月2日、本能寺の変が起きて信長が横死、旧武田領を支配していた織田家家臣は逃走したため、徳川家康上杉景勝・北条氏直が熾烈な旧武田領の争奪戦を繰り広げるのである。(天正壬午の乱

上田合戦

天正壬午の乱

昌幸もこの好機を逃さずに信濃小県郡や佐久郡の旧武田家臣の取り込みを策し、近隣の旧武田家の家臣たちや国人衆は昌幸と主従の関係を結んだ。

北条氏直が上野に侵攻し滝川一益を破ると(神流川の戦い)、昌幸は叔父・矢沢頼綱を送り込んで沼田城を奪回し、昌幸の嫡男・信幸(のちの信之)を岩櫃城に送って上野方面を固めた。
この時、昌幸は生き残りを図るためにまずは6月に上杉景勝に臣従、7月9日には北条氏直に寝返り、9月25日には徳川家康に寝返って北条氏を裏切った。

その後、北条氏邦が沼田城を攻めるも成功せず、徳川軍と対峙した北条軍は10月29日に和睦するが、北条との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。

これに対し昌幸は、自力で獲得した沼田をなぜ譲らねばならないのかと猛反発した。

昌幸は上杉・北条・徳川と次々と陣営を変えながら三者を牽制し、領土と領民を守るために臣従はするが心服はしないという戦略で乗り切ったのである。

第一次上田合戦への経緯

上田合戦

尼ヶ淵から上田城を望む(2014年2月撮影)wiki c Qurren (talk)

天正11年(1583年)昌幸は対上杉として千曲川領域を抑える城が必要となり、家康の命で川の北側・沼・崖などの自然を要害とする上田城と城下町を築いた。
一説には上田城の築城に際して、家康にその資金を出させたという説もある。
昌幸は家康の家臣としてこの一連の活動を行っているが、家康との和睦条件の齟齬から既に独立を考えていた。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが起き、昌幸は上杉景勝を牽制するため信濃に残留、家康の注意がそれたのを見て沼田城周辺で北条氏と小競り合いを繰り返し、沼田・吾妻の所領を改めて確保し、沼田・吾妻・小県を完全に真田領として掌握した。

家康は秀吉と和議を結んだが、天正13年(1585年)4月、家康は氏直からかつての和議の条件である沼田領の履行を迫られた。
家康は昌幸に沼田領を北条に引き渡すように求めたが、昌幸は「相応の代替地がない限りは引き渡しには応じない」と再度拒否した。

昌幸は家康との決別を決めて、徳川軍の侵攻に備えて次男・信繁を上杉景勝に人質として送り、上杉に従属して徳川との戦いに備えた。

第一次上田合戦

上田合戦

上田城

同年閏8月、家康は鳥居元忠大久保忠世・平岩親吉ら約7,000の軍勢を昌幸の居城・上田城に差し向けた。氏直は北条氏邦を沼田城に侵攻させた。
対する昌幸はわずか1,200の兵力(2,000とも)で迎え撃つことになった。(第一次上田合戦

まだ、完成していない上田城に昌幸ら700、支城の砥石城に信幸ら300、矢沢城に矢沢頼綱ら200の兵と上杉の援軍が布陣した。
昌幸の次男・信繁(幸村)は人質先の上杉家から一時的に戻るが、この戦いには加わってはいないとされている。(※一説には祢津城の守りに配置されたという説もある。

真田軍は上田城から200の兵を囮(おとり)部隊として城の手前の神川に配置、城下町のあちこちに柵を交互に配置する。
同年8月2日、徳川軍が正面の囮部隊に攻撃を開始すると、200の囮部隊はすぐに城に逃げ込み徳川軍を城下町に引き入れた。
そして事前に民を避難させていた昌幸は、城下町に火を放った。

この日は風が強く徳川軍は炎に包まれた。しかも大軍ゆえに柵で身動きが取れなかった。
さらにそこを鉄砲隊が狙い撃ちをし、大混乱に陥った徳川軍に今度は隠れていた農民兵が襲いかかった。

徳川軍が炎から逃れるように神川へ逃げ込むと、今度は神川の上流で堰を切った。
あっという間に川が増水して徳川軍の兵と馬は流され、そこへ支城などから駆け付けた真田軍が総攻撃をかけた。

この戦いで徳川軍の死者は1,300を超え、対する真田軍の死者は40名ほどであったという。数の上では圧倒的に不利な真田軍の大勝利であった。

小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉でさえ勝てなかった徳川軍を破ったことで「真田恐るべし」と、昌幸の名は天下に知れ渡り一目置かれる存在となるのである。
沼田城も北条軍から数回に渡って攻撃されたが、城代・矢沢頼綱らがいずれも撃退している。

戦後

昌幸はその後、秀吉に臣従した。第一次上田合戦に至るまでの諸勢力との外交や数郡を支配する勢力拡大が評価されて、昌幸は小領主から大名へとなった。
家康の真田に対する評価も高まり、家康は徳川四天王の本多忠勝の娘・小松姫真田信幸(信之)へ嫁がせて懐柔するきっかけとした。

沼田領問題は秀吉が裁定して、北条氏には利根川以東が割譲、昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得た。
しかしその後、北条氏の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を攻めてしまった。この秀吉の裁定を無視した事件が小田原征伐のきっかけの一つとなり、昌幸・信幸も小田原征伐に従軍した。

昌幸は秀吉から家康の与力大名とされていたが、沼田問題で秀吉の信任を得て正式に豊臣系の大名となった。
沼田領は信幸に与えられ、家康配下の大名として上田領から独立した。

犬伏の別れ

慶長3年(1598年)8月、秀吉が亡くなり、家康が五大老筆頭として台頭し影響力を強めた。
昌幸は表向きでは家康に従っていた。慶長5年(1600年)の会津征伐にも従軍していた。

しかし石田三成が反徳川として挙兵し、諸大名へ家康弾劾の書状を送り、昌幸の元にも書状が届いた。
ここで昌幸は信幸・信繁と共に真田家の去就を決めるための会議を開く。昌幸は宇多氏を通して三成と姻戚関係にあり、次男・信繫は三成の親友・大谷吉継の娘を妻としていたために、昌幸・信繫は西軍につくことになった。

上田合戦

真田信之(信幸)

信幸は正室の小松姫が本多忠勝の娘であることを理由に東軍につくことになり、真田家は東軍・西軍どちらが勝っても生き残る戦略をとり、お家存続のために父子は決別した。(犬伏の別れ

上田城に引き返した昌幸はその途中で信幸の居城・沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」として開門を請うたが、城を略奪される恐れがあるとして小松姫は拒絶したという。(※孫には密かに城下の寺で会わせたとも

昌幸は「さすがは本多忠勝の娘」と笑って沼田城を通り過ぎたという話が伝えられている。

第二次上田合戦

関ヶ原の戦いにおいて、西に向かう家康は関東不在中に上杉や真田に江戸を奪われぬように、徳川軍を二つに分けて進軍することに決めた。
家康率いる軍は東海道を、嫡男・徳川秀忠の軍3万8,000は真田の牽制を兼ねて中山道を進軍させた。
昌幸・信繁親子は7月23日に上田城に戻り、三成と連絡を取り合った。

徳川秀忠

昌幸の戦略は、3万8,000の秀忠軍を3,000人程度の少ない真田軍(上田城)で足止めをし、西軍との本戦(関ヶ原の戦い)に遅参させることであった。

秀忠にとって重要なのは関ヶ原の戦いであり、真田攻めはあくまでも大事の前の小事、無視して関ヶ原に向かっても良かった。
しかし、信濃を通過した後に背後から攻撃される可能性もあり、真田軍を完全に無視することも出来なかった。
また、この時秀忠は21歳と若くこれが初陣であったこと、真田軍はたった3,000の兵であること、徳川は以前真田に敗れているから自分が上田城を落とせば父・家康に褒められて良い土産にもなると考えた。

秀忠軍は中山道を通って9月2日に小諸城に到着、翌日には秀忠軍に同行していた信幸と本多忠政が使者として昌幸と会談して降伏を促した。
この時に昌幸は頭を丸めて降伏する旨を伝えたという。秀忠は徳川家の汚名を自分の手で拭うことが出来たと大いに喜んだ。
しかしこれは昌幸の時間稼ぎであった。この間に上田城に兵糧や弾薬を運び入れて上田城周辺には伏兵を忍ばせていたのである。

翌日、翌々日になっても降伏の約束を守らない昌幸に秀忠は使者を出した。すると昌幸は「返答を延ばしていたのは籠城の準備のためだ、充分に支度が出来たので一合戦つかまろう」と宣戦布告をしたのである。

これに秀忠は大激怒した。秀忠の側近たち(本多正信榊原康政)は「昌幸は侮れないから真田など無視して先へ」と説得したが、血気に逸った秀忠は重臣たちの意見も聞かず9月5日に全軍に攻撃命令を下した。

それこそ昌幸の思うツボである。昌幸は上田城、信繁は北部の戸石城に入る。
秀忠軍の本隊は上田城を攻め、分隊を戸石城に差し向ける。分隊の大将には土地勘のある信幸が任命された。

※戸石城(砥石城)

秀忠からすると「信幸が裏切るのでは?」との思いもあった。しかし戸石城の信繁は「兄と戦いたくはない」と信幸が着く頃には上田城に撤退していた。
信幸は「もぬけの殻」となった戸石城に入ったが、戸石城はかつて武田信玄さえも攻略に苦しんだ城である。そこを簡単に信幸が入ったことで徳川軍は疑心暗鬼となり、奪還される恐れがあるとして信幸にそのまま守備をさせた。

これで信幸と直接戦うことが無くなり、昌幸・信繁父子は思う存分戦うことが出来るようになった。

9月6日に秀忠は上田城を包囲し、9月8日には家臣・牧野康成に田畑の稲を刈り取らせて真田軍が城から討って出るのを誘った。
昌幸は徳川軍を挑発するために昌幸と信繁が自ら50騎を率いて城外に出て偵察に出た。

いきなり総大将が現れて徳川軍は驚いた。牧野康成は秀忠の戦闘禁止の命を破って攻撃を開始、それに本多忠政隊も加わり、徳川軍は昌幸らを追って上田城に接近し大手門まで迫った。
すると大手門が開き真田軍の鉄砲隊が一斉に射撃を開始、戦闘開始を見た徳川軍の大軍は次から次へと大手門めがけて急いだために、射撃を受けた先鋒部隊が退却しようにも後ろから功を焦る兵が押し寄せて来た。

進むことも退却することも出来ない徳川軍に上田城付近に潜んでいた伏兵が襲いかかり、上田城からも真田軍が討って出て徳川軍を蹴散らした。
前の晩に密かに上田城を出ていた信繁の200の兵は、伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出た伏兵と共に手薄になった秀忠の本陣を襲撃する。
挟み撃ちとなった秀忠は、家臣から馬を与えられて小諸城に逃亡した。

さらに第一次上田合戦の時と同様に神川の上流の堰を切って神川は大増水、後方に控えていた援軍は川を渡ることが出来ずに立ち往生となった。
その後、真田軍は上田城で籠城を始めた。城には多くの兵糧と弾薬が備蓄してあった。

そして秀忠のもとに家康から「9月9日までに美濃・赤坂に着陣すべし」と書状が届いたため、秀忠は松代城に森忠政を抑えとして残し、9月9日に急いで進軍を開始した。

徳川軍は2度に渡って真田軍に敗れたことになり、秀忠は悪天候もあり関ヶ原の戦いの本戦9月15日には間に合わず、4日後の9月19日にようやく到着。

昌幸・信繁の秀忠軍の遅参作戦は大成功したのである。(但しこれは過去の通説で、近年の研究では上田城攻めは元々家康からの命令だったという説、遅延の一番の原因は大雨という説もある

残った森忠政の軍に信繁は夜討ち・朝駆けをしたが、関ヶ原の戦いは小早川秀秋らの裏切りもあり、たった1日で家康の東軍の勝利に終わってしまう。

戦後

昌幸・信繁父子は第二次上田合戦には勝利したが、肝心の関ヶ原の戦いに西軍が負けてしまったために敗軍の将となってしまった。
2度も徳川のメンツを潰された家康は、真田父子の所領没収と二人を死罪とした。

本多忠勝 岡崎公園にある銅像

真田信幸は義父・本多忠勝と共に家康に懸命な助命嘆願をしたが、家康は「真田だけは絶対に許せん」と譲らなかった。
信幸は「自分の命と父・弟の命を引き換えに」と訴え、本多忠勝に至っては「ならば、殿(家康)と一戦つかまつる」とまで訴えて擁護した。そして信幸は父・昌幸と決別するために真田家の通字である「幸」を捨てて「信之」と改名した。

懸命な嘆願の甲斐があり、家康はあくまでも特例として真田父子の命を助け、二人は高野山の蓮華定院に送られることになった。
昌幸は上田城から連行される際に「悔しい、家康をこのようにしてやりたかった」と涙ながらに語ったという。

家臣の同行も一部認められ、昌幸には16人の家臣が随行、昌幸の妻・山手殿は信之のもとに住み、信繁には妻・竹林院の随行が許された。

信繁が妻の竹林院を伴ったために、女人禁制の高野山では不便ということで高野山麓の九度山で蟄居となり、真田父子は善名称院、通称「真田庵」で山手殿からの仕送りや紀伊藩からの年50石の合力に頼る細々とした貧しい生活を送った。

真田庵(善名称院) 本堂 wiki c KENPEI

おわりに

昌幸は信繁に「天下を分ける大きな戦がまた起きる」と予言し、信繁に家康を倒す策を授けたとされている。

大坂冬の陣の前に昌幸は亡くなったが、昌幸の「天下を二分する大きな戦い」という読みは当たり、信繁は大坂方から支度金や高い禄を持って迎えられ、死に場所を見つけたとして名を「幸村」として大坂城に入った。(※諸説あり)

幸村は大坂城の弱点である南側に砦・真田丸を造って大坂冬の陣では徳川方に大打撃を与えた。
翌年の大坂夏の陣では決死隊として家康の首まであと一歩のところまで迫り、家康に自害を覚悟させるほど追い詰めた。

その活躍は諸大名から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とまで称賛されたのである。

 

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コメント

  1. アバター
    • 歴史大好きおじさん
    • 2022年 1月 05日 12:22pm

    大坂冬の靭の前に大坂城に真田が入ったと聞いた天下人・家康は「父か子か?」と驚愕したという。
    息子だと知って一安心したが、冬の陣では真田丸でコテンパンにされ、夏の陣では死を覚悟した。
    これも父・昌幸が信繁に対徳川の大軍相手に対抗する策を死ぬ前に息子に伝授していたというから昌幸は稀代の戦上手なのでしょうね!

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