戦国時代

本多正信 【家康から友と呼ばれるも周りから嫌われた軍師】

本多正信とは

戦国時代の覇者・徳川家康には本多正信(ほんだまさのぶ)と言う優れた軍師がいた。

徳川四天王とは違う面で家康を支え、彼無しで徳川の世は成り立たなかったと家康に言わしめた人物である。

豊臣秀吉には竹中半兵衛黒田官兵衛という戦国時代を代表する軍師がいたが、家康には水と魚と言える間柄の本多正信がいたのだ。

家康を天下統一に導いた軍師・本多正信について解説する。

生い立ちから反逆

本多正信とは

※佐々木泉龍 (1808 – 1884) 作『本多正信画像』

本多正信は天文7年(1538年)三河国の徳川家康(当時は松平姓)の鷹匠として仕えていた本多俊正の次男として生まれる。

正信の幼い時の詳細な資料等は残っていないが永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで、家康と共に戦いその時に膝を負傷して足を引きずったとされる。

正信は永禄6年(1563年)の三河一向一揆で一向宗の側につき家康と袂を分かつようになる。

この一向一揆は宗教戦争とされていたが、本当は松平家の内部争いではなかったかと言われている。

一向一揆が家康側の勝利となった後、正信は三河を追放されて浪人暮らしをすることになるが、詳しい資料等は残っていない。

一説では正信は京に行き、そこで松永久秀に出会って「強すぎず弱すぎず卑屈でもない平凡を超えて並みの人物ではない」と評されている。

他には正信が加賀の一向一揆に参加したとか、柴田勝家の軍と戦ったという話もある。

約10年近く諸国を漫遊した後に家康の家臣・大久保忠世のとりなしによって家康の元に帰参することを許される。

その時期は姉川の戦いの頃、または本能寺の変の頃とされているが、一説には伊賀越えを家康と共に行ったとされている。しかし共にした34名の家臣には正信の名前がなかった。

信頼回復

正信が歴史の表舞台に出てくるのは天正10年(1582年)家康が旧武田領を併合すると正信は奉行に任じられ、武田家臣団を徳川家に取り組むことに奔走する。

譜代の家臣ではなく正信に白羽の矢が立ったのは、一度家康を裏切ったという経歴が旧武田家家臣団を取り組むのに適していた人材だったからだ。

このことは遠江の井伊直政が武田の赤備え軍団を吸収するのと同じ理由と言える。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、正信は四国の長曾我部に出兵を即す書状を出すなど家康の外交面を担当する。

天正14年(1586年)には従五位下・佐渡守になり、名実共に家康の側近の軍師としての地位を確立する。

天正18年(1590年)小田原征伐後の関東入り後には、相模国に1万石の領地を与えられて大名になる。

正信は家康の江戸の町づくりに尽力して、武功で徳川家を支えた徳川四天王本多忠勝榊原康政酒井忠次井伊直政)とは違った、今でいう官僚的な役人として家康の信頼を得る。

関ヶ原の戦い

本多正信とは

※関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、正信は中山道を進む徳川秀忠軍の参謀を務める。

真田昌幸・信繁親子が守る上田城攻めで、戦にはやる秀忠を正信は諌めたが、秀忠は聞き入れずに関ヶ原の戦いに遅参してしまった。

しかし家康は正信を責めず、信頼は変わらなかったので正信は期待に応えるべく奮起したのだ。

関ヶ原の戦い後の戦後処理では、九州の島津親子を上洛させて家康の九州平定に尽力し、真田昌幸を九度山に蟄居させるなどの功績を挙げる。

正信の戦後処理に見られる特徴は、家康・秀忠と家臣との間をとりなすなど調和を図る能力に長けていたと評されている。

関ヶ原後の家康の後継を選ぶ5人の重臣として、本多正信・井伊直政・本多忠勝・大久保忠隣・平岩親吉の中に選ばれている。

その当時、正信は家康の後継として結城秀康を推していたが秀忠が後継に決まる。しかし、正信の立場は変わらず徳川家の中枢となる家臣になっていた。

徳川幕府

その後、正信は家康が征夷大将軍になるために朝廷との交渉に尽力する。

また、昔自分が属していた本願寺の兄弟対立を利用して、本願寺の分裂を即して勢力の弱体化に成功する。

慶長8年(1603年)家康が征夷大将軍に就任して徳川幕府を開設すると幕政運営に努めて家康を補佐する。

慶長10年(1605年)家康が大御所として駿府に隠居すると、正信は2代将軍・秀忠の側近として江戸に残り、秀忠の政治指南役となり慶長12年(1607年)には秀忠付きの年寄(老中)となり幕府を支える。

この頃、同じ幕閣の大久保忠隣との間に確執が勃発して岡本大八事件が起きる。

正信の長男・本多正純の家臣・岡本大八が朱印状を偽造して、肥前国の有馬晴信を騙して賄賂を受け取ったのである。

これにより正信・正純親子の立場は悪くなるも、慶長18年(1613年)の大久保長安事件によって大久保忠隣が翌年に改易となって失脚する。

この事件への正信の具体的な関与の事実は無いが、正信が画策したのではないかと言われている。

元和2年(1616年)4月家康が死去すると正信は嫡男・正純に家督を譲って隠居し、家康の後を追うように49日後の同年6月7日79歳で死去した。

徳川家康との関係

本多正信とは

徳川家康

家康が正信を重用したのは、家康が関東に国替えをさせられた後の江戸の町作りからとされる。

家康の正信に対する信頼は厚く、両者の関係は「水魚」に例えられ、何度も話合わずとも少しの言葉のやり取りで理解し合えたとされる。

石田三成が加藤嘉明たちに襲撃され家康邸に逃げた時に、正信は家康に「治部(石田三成)をどうします?」と聞くと家康は「今考えている所よ」とだけ述べる。

正信はこれだけで家康が何を考えていたかが分かったとされ、家康から「友」と呼ばれるのだ。

優しい一面

知略・謀略・内政にて軍師として功績を挙げる正信に対して、他の武将たちからの評判は悪かった。

それで正信は周囲の嫉妬を避けるために、加増を望まずにいたとされる。

晩年には2万2000石になったが長い間は1万石で、嫡男・正純には「私の死後におまえは加増を望むだろうが3万石だけにせよ、それ以上は望むな、それ以上だったら辞退しろ」と言ったのだ。

秀忠には「これまでの正信のご奉公をもしお忘れにならなければ、所領はこのままで良いので長く子孫が続くように」と頼んだ。

しかし、正純は正信の死後に言いつけを守らず、宇都宮15万5000石となった後に改易となった。
正信の言ったことは現実となってしまうのだ。

また、正信は自分の経験からなのか敗者に優しかったとされる。

関ヶ原の戦いの後、石田三成の嫡男・家重の処遇では殺すのが当たり前とされたが、仏門に入っていたので家康は悩んだ。

そこで正信は「家重には赦免する理由がある。親父の治部は徳川家に大功がある」と進言した。

家康が「大功とは?

と訊ねると正信は

治部のお陰で関ヶ原の戦いが起きて日本は全て徳川家のものになった

と説いた。それで家康は家重を赦免したのだ。

関ヶ原で敗れた上杉景勝の重臣・直江兼続に頼まれて正信は次男・政重を養子に出している。

その後、加賀・前田藩に頼まれると、政重を本多姓に戻し加賀藩に仕えさせて、上杉家・前田家の両家は正信によって徳川家との間をつないだ。

後の大阪の陣でも豊臣方の大大名だった上杉家と前田家が徳川家に味方したのも、こうした正信の敗者への優しい対応が大きく影響したと考えられる。

家康の友

徳川家康から「」と呼ばれるほどの信頼を得た本多正信は、若い時に裏切ったことを忘れさせるほど家康の頭脳として尽力した。

軍師・本多正信の知略・謀略によって家康は戦国時代の覇者となることができたが、余りの謀略によって他の武将たちからは睨まれていたことを悟った本多正信は、息子・本多正純に3万石以上を望むなと進言するも、正純はそれを聞かずに15万5000石となった3年後に改易となる。

徳川家康に重用された本多親子は切れ者過ぎたために、幕府内部からの嫉妬によってたった2代で隆盛してすぐに没落してしまった。

時代劇やドラマでは、本多正信は謀略の限りを尽くす悪者として描かれているが、実は敗者に優しい一面も併せ持つ人物だった。

 

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