切っても切れない酒と三国志
酒と三国志は切っても切れない関係であり、酒に関するエピソードも豊富だ。
今回は、三国時代の酒事情の解説と、酒に関するエピソードを紹介する。
曹操が残したレシピ
三国志と酒で浮かぶのが張飛だが、実は正史に酒絡みのエピソードがないのは有名な話だ。
では、三国志で最も酒と深い関わりを持った人物は誰だろうか。
筆者の中で、その答えは曹操だ。
「對酒當歌(酒に對『たい』して當『まさ』に歌ふべし)」
という歌い出しで知られる「短歌行(たんかこう)」も有名だが、献帝に対して酒のレシピを上奏している。
郭芝(かくし)という酒造職人から聞き出したと言われるレシピなのだが、長くなるので手短に書き出すと
麹30斤(約7kg)を水5石(約100ℓ)で洗い、良質な米を加えて3日に1度発酵させ、9石(約180ℓ)になるまで米を追加しつつ、9回発酵を繰り返す(それでも苦ければもう一度発酵させる)
9回発酵させるから「九醞春酒法(きゅううんしゅんしゅほう)」と呼ばれているが、あの曹操がレシピとして後生に残すほど、当時の中国に於いて酒は大きな意味を持っていた。
酒の意味
古代中国において、酒造技術は大きな発展を遂げた。
理由はいくつもあるが、三国時代の酒の消費を想像すればその理由も納得出来る。
戦争中の席でも酒、和睦の席でも酒、冠婚葬祭も酒、とにかく酒が必要だった。
また、儀式用に作られる神の酒は「斉」と呼ばれ、儀式に於ける重要なアイテムだった。
このように、三国時代は酒の出番が多く、より上質な酒を作るために酒造のノウハウが大きく発達した時代だったのである。
酒と外交
わざわざ神用の酒が作られた昔の中国に於いて、酒を飲む場は非常に神聖で重要なものだった。
現代以上に冠婚葬祭が重要視された当時を想像すると、親類が集まり神や先祖と一緒に酒を飲み、盛り上がる事は一族の連帯感を強くする。
殷や周といった古代の中国では宗教的にも強い意味を持っていたが、三国時代になると宗教色は薄れ、政治色の濃いものになる。
現代に於いても食事は大事なコミュニケーションの場で、筆者も友人と会って食事をするのは楽しみの一つだが、視点を広げると食事は外交など重要な「政治の場」にもなり、酒を飲める事はある意味でアドバンテージになる。
三国時代の有名なエピソードでいうと、費禕と諸葛恪が宴席で舌戦を繰り広げており、単なる飲みの席ではなく真剣勝負の外交の場でもあったのだ。
恐ろしい酒
その酒の席で費禕も諸葛恪も暗殺されてしまったという事実もまた皮肉な話であるが、外交の場である一方で、暗殺が起きる危険もあった。
殺される危険とともに宴に赴くのは相当な覚悟が必要だが、劉表は酒を敵の排除に利用した。
「劉表が荊州の統治を任された時に、反対勢力を宴に招いて総勢55人にも及ぶ大虐殺を行った」という話は以前にも書いたが、
劉表 ~三国志の隠れた名君
https://kusanomido.com/study/history/chinese/sangoku/58469/
そもそも何故劉表と敵対していた面々は劉表の元に赴いたのだろうか。(参加者全員が酒好きだから喜んで向かったとは考えにくい)
これは正史に書かれていない筆者の考察であると前置きしておくが、正当な理由もなく断ると劉表から疑われ、自身の立場も悪くなる。
さすがに断ったから即座に攻め滅ぼされるという事はないだろうが、何度も断る事は出来ず、命の危険とともに嫌でも宴席に向かわざるを得なかったのではないだろうか。
また、この話は嘘か本当かは分からないが、劉表は酔うまで飲ませ、本当に酔っているか確かめるため水を浴びせたり、針の棒でつついたりしたらしい。(当時の酒は度数が低く、酔うには相当飲まなければならなかった)
劉表の生涯を辿ってもこの話が紹介される事はあまりなく、そもそも事実なのか伝説なのか確証のないエピソードだが、敵を飲みの席に呼び出して皆殺しにしたことを考えると、ある意味では最も仕えたくない君主である。
名患者 関羽
このように、三国時代に酒は大きな意味を持っており、酒に関する逸話は書ききれない。
最後は、筆者の推し武将である関羽と酒のエピソードで締めたい。
関羽は正史の記述が乏しいが、酒に関するエピソードが書かれている。
関羽はかつて矢が左肘を貫通した事があり、傷が癒えた後も雨の日には骨が疼き、痛んでいた。(演義では名医と名高い華佗が登場し、関羽は手術の間、馬良との碁に興じているが、正史では華佗の名は登場せず、馬良と碁を打ったという記述もない)
医者によると「矢に塗った毒が骨に染み込んでおり、骨を削って毒を取り出さなければなりません」という想像以上に深刻なものだった。
関羽は肘を出してすぐに手術するよう促すが、手術が行われたのは諸将を招いた宴の真っ最中だった。
受け皿が血で一杯になるほどの大手術が行われる中、関羽は肉と酒を楽しみ、談笑していた。
宴の余興にしては劉表に匹敵するほど悪趣味な光景だが、真っ当な神経をしていたら目を逸らすような状況でも一切動じない関羽の姿から「言笑自若(げんしょうじじゃく)」という言葉が生まれた。
現在ではほぼ同じ意味の「泰然自若(たいぜんじじゃく)」という言葉の方が一般的で、言笑自若という言葉が使われる機会は少ないが、痛みに動じる事なく、宴を楽しむ関羽の大物ぶりを示すエピソードとして伝わっている。
参考 : 正史三国志
この記事へのコメントはありません。