三國志

曹操孟徳の少年期について調べてみた「正史三国志」

今回も可能な限り史実に基づき「正史三国志」を読み解きます。

曹操の出自

曹操孟徳の少年期について調べてみた「正史三国志」

曹操孟徳(そうそうもうとく)は沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の生まれで、前漢の頃に宰相をつとめた曹参(そうしん)の子孫と記述がある。

後漢の終盤に4人の皇帝に仕え、宦官(かんがん)の最高位である大長秋まで上り詰めた曹騰(そうとう)が、曹嵩(そうすう)を養子にとった。

その曹嵩の子供が曹操である。

ただし「正史三国志」の著者である陳寿は、父である曹嵩の出自については明確にできないと言っている。

つまり曹操の父親はどこの誰だかわからないような人物と言っているのである。

後の時代に「正史三国志」に注釈をつけた裴松之(はいしょうし)は当時の他のいくつかの史料から「曹嵩は夏侯氏の子孫で夏侯惇(かこうとん)の叔父である」という記述を見つけ注釈として載せている(※ただし裴松之は正史以外の当時存在した多くの史料を注釈として載せているが、その内容の正否にはあまり触れずそのまま載せる形式をとっている)

注釈どおりなら、曹操は形式的には曹参の子孫だが夏侯氏の末裔で、夏侯惇は従兄弟ということになる。これは現在、様々な三国志関連の作品でも採用されている。

曹操は乞食の子供?

個人的に気になるのは、「袁紹伝」にあった陳琳(ちんりん)の檄文だ。

袁紹と曹操による大戦「官渡の戦い」の直前に、袁紹配下であった陳琳は曹操を揶揄する檄文を、中国全土に発している。

その檄文の中に

「曹操の父の曹嵩は乞食であったが、曹騰にひきとられ養われた」※魏氏春秋より

という記述がある。

曹操を揶揄する為の文とはいえ、全く根拠のないところから乞食と言い切るのは難しいと思うし、正史の著者の陳寿ですら「曹嵩の出自は明確にできない」と言っているが、高級宦官であった曹騰が乞食をひきとるというのも考えにくく、曹操の父親の曹嵩の出自については議論の余地を残すところである。

頭の切れる悪ガキだった

太祖(曹操)は若年より機知があり、権謀に富み、男立て気取りでかって放題、品行を整えることはしなかった

したがって世間には彼を評価する人は全然いなかった  ※「正史三国志」より引用

漫画「蒼天航路」でも少年期の曹操が描かれているが、あのイメージのままの記述である。

「曹瞞伝」にも面白いエピソードがある。

曹操は若い頃は鷹を飛ばして犬を走らせて狩りをすることが好きで、限度のない放蕩ぶりだった。そんな曹操を叔父は快く思っていなかったようで、父の曹嵩にたびたび告げ口をしていて、曹操はそんな叔父を厄介に思っていた。

そんなある日、道で曹操と叔父がばったり出会った。そこで曹操はわざと顔面を崩して口を捻じ曲げて見せた。

不審に思った叔父が曹操に理由を尋ねると、曹操は

突然ひどい顔面麻痺にかかりまして・・・

と言った。それを聞いた叔父は、そのことを曹嵩に知らせた。心配になった曹嵩は曹操を呼びつけたが、顔面は普通だった。

不思議に思った曹嵩は曹操に

叔父さんは、おまえが麻痺病にかかったと言っていたが、もう治ったのかね?

と、尋ねると曹操は

全然麻痺になんてかかっておりませんよ。叔父さんは私のことがお気に召さないものですから、でまかせを言ったのでしょう

それを聞いた曹嵩は叔父に疑念を抱いた。

それ以降、叔父がいくら曹操のことを言ってきても、曹嵩は一切耳をかさないようになった。その結果、曹操はますますやりたい放題ふるまうようになった。

なんという頭のキレる悪ガキだろうか。

曹操を高く評価していた名士たち

多くの人は若い頃の曹操を評価していなかったが、曹操を高く評価する人たちもいた。

人を識別する能力があると評判の高かった大尉の橋玄(きょうげん)、南陽の何顒(かぎょう)、許劭(きょしょう)などである。

当時は人物評が盛んな時代で、こういった名士たちに評価されることは、世に出るために非常に重要なことであった。

橋玄の曹操評

「天下はまさに乱れようとしている。一世を風靡する才能がなければ救済できぬであろう。乱世を鎮められるのは君であろうか」※正史より

「ずいぶん天下の名士に会ったが、君のような者は初めてだ。君は自分を大事にしなさい。わしは年をとった。妻子をよろしく頼みたいものだ」※魏書より

このことから曹操の名声はますます高くなった。

何顒の曹操評

漢王朝はまさに滅びようとしている、天下を安んじるのは必ずこの人だ」と曹操を評した。軍師の荀彧を「王佐の才」と評したのもこの人である。

その後、曹操は橋玄に勧められ、名士で知られていた許劭の元を訪れた。そこで曹操は許劭に自分がどんな人間に見えるか尋ねた。

許劭の曹操評

「君は治世にあっては能臣、乱世にあってが奸雄だ」※異同雑語より

これを聞いた曹操は哄笑(こうしょう : 大口を開けて笑う)したという。

洛陽北部尉と二度の上奏

その後曹操は洛陽の北部尉となり、門の警備の仕事に就く。

その警備の厳格さは常軌を超えており、禁令に違反する者(夜間外出など)はたとえ皇族であろうと容赦せず、法令どおり五色棒で叩き殺した。洛陽ではその後、禁令を犯す者はいなくなったが、近習や寵臣たちは曹操を憎んだという。しかしつけこむ隙がなく、仕方なく上へ祭り上げ県令に昇進させ、曹操を洛陽から遠ざけた。

天子への上奏(皇帝に直接意見を届ける)は蒼天航路では一度描かれているが、実は二度上奏している。一度目は第二次党錮の禁の結果に対する上奏で、宦官に弾圧され殺された清流派の人たちを擁護する上奏であったが、靈帝は採用しなかった。

その後、当時の三公の不正邪悪について上奏した。今度は靈帝に採用され、靈帝は三公に対して厳しく叱咤したが結果的にはさほど効果がなく、ますます社会の不正邪悪がはびこり、曹操はこの方法だと国を正しくできないと悟り、もう二度と上奏することはなかった。

その後、黄巾の乱の討伐で大活躍し、群雄として着実に勢力を伸ばしていくわけである。

曹操は少年期から悪知恵が働き、若くして奸雄扱いされてしまうが、誰よりも正義感の強い一面も持つ魅力的な人物だったのではあるまいか

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