春秋戦国

『古代中国』自らを天才と勘違いして大敗北した将軍 ~味方の兵士40万人が生き埋めに

名将の子として生まれた趙括

趙括(ちょうかつ)は、中国戦国時代の趙の将軍であり、名将として名高い趙奢(ちょうしゃ)の息子として生まれた。

画像 : 趙奢(ちょうしゃ)public domain

趙奢は、巧みな戦術と果敢な指揮で秦軍を撃退し、「馬服君(ばふくくん)」の称号を与えられたほどの名将であった。

その血を引く趙括もまた、幼少期から兵法を学び、戦略戦術に関する知識を豊富に身につけていた。

趙括は若くして兵法の知識をひけらかし、しばしば論争に勝って周囲を驚かせたという。
ある時、父の趙奢に戦術論を挑んだ際には、言い負かすことすらあった。

しかし趙奢は、そんな息子に警戒心を抱いていた。
趙奢の妻(趙括の母)がその理由を尋ねると、趙奢は「戦というものは生死をかけた場であるのに、趙括はあまりにも軽々しく論じている。もし将軍になったら趙軍は壊滅するだろう」と答えた。

実際、趙括は兵法に通じていたものの実戦経験はなく、戦場でのリアルな駆け引きを理解していなかった。
戦場においては理論の他に、刻々と変化する状況への適応力、兵士の士気の管理、敵の心理を読む力などが求められる。

実践経験がないので仕方のないことでもあるが、趙括は紙の上の理論だけで自信満々だったのである。

長平の戦いとは

画像 : 紀元前260年の戦国七雄 wiki c Philg88

当時、中国全土の覇権を巡る争いは激化していた。特に強大な軍事力を誇る秦は、各国を圧倒しながら着実に領土を拡大していた。

その秦が韓への圧力を強めたことが、やがて趙をも巻き込む大戦争へと発展していく。

発端は、韓の上党郡を巡る問題だった。秦軍が韓の要衝・野王を占領したことで、上党は飛び地となり孤立してしまったのである。

韓の桓恵王(かんけいおう)は秦との和平のため、上党を秦に割譲しようとした。

画像 : 長平(ちょうへい)の戦い(Shangdangが上党郡)wiki © SY

しかし、上党の守であった靳黈(きんとう)はこれを拒否した。そこで韓王は靳黈を罷免し、新たに馮亭(ふうてい)を派遣した。

しかし、上党の住民たちは、虎狼の国と恐れられていた秦の支配下に入ることを拒否し、馮亭に「秦には降りたくない」と訴えた。

吏民は協議を重ね、秦の進出を防ぐために趙へ帰属することを決定。
こうして馮亭が着任してから30日後、上党の十七城が趙に帰属する意思を表明し、使者を趙へ派遣したのである。

趙の孝成王はこの申し出を受け入れ、上党の領有を宣言する。

しかし、これは秦にとって「韓の領土を正式に受け取るはずだったのに、趙に奪われた」と見なされる事態であった。
これに激怒した秦は、紀元前261年、上党に進軍し、趙軍との対立が決定的となった。

これに対して趙は、名将・廉頗(れんぱ)を総大将に任命し、秦軍を迎え撃つこととなったのだ。

趙王の誤った決断

画像 : 趙の名将・廉頗(れんぱ)白起・王翦・李牧と並ぶ戦国四大名将の一人 public domain

廉頗は堅実な戦術をとり、持久戦に持ち込むことで戦況を優位に進めようとした。

彼は長平の要害を利用して防御を固め、秦軍を挑発せず、籠城しながら時間を稼いだ。
この戦略は理に適っていた。なぜなら秦軍は遠征軍であり、長期間の戦闘が続けば兵站の維持が困難になり、疲弊することが確実だったからだ。

しかし、この慎重な戦術に不満を持ち始めたのが趙王・孝成王(こうせいおう)であった。
また、戦いが長期化するにつれ趙国内においても、より積極的な戦術を求める声が強まっていた。

この状況を利用しようと考えたのが、秦の宰相・范雎(はんしょ)である。

范雎は趙国内に間者を送り込み、「秦軍が最も恐れているのは老人の廉頗ではなく、趙括(ちょうかつ)が指揮をとることだ」という偽情報を流布させたのである。
范雎の狙いは、趙国内の反廉頗派を勢いづかせ、名将・廉頗を更迭させることであった。

この偽情報を信じた孝成王は、廉頗の更迭を決意してしまった。

趙の重臣である藺相如(りんしょうじょ)はこの動きを察知し、重病を押して王宮へ赴き、趙括の起用を強く諫めた。
しかし孝成王はこれを聞き入れず、ついに廉頗を解任し、趙括を総大将に任命した。

趙括の母もまた、息子の将軍就任に強い危機感を抱き、孝成王に直訴した。

彼女は「趙括は父・趙奢(ちょうしゃ)とは違い、戦場の現実を知らず、部下に対して威張り散らし、私利私欲に走る人物です。将軍としての資質に欠けており、彼を任命すれば趙軍は破滅するでしょう」と訴えた。

さらに「もし趙括が軍を壊滅させても、私や一族には罪を及ぼさないよう願います」とも念押しした。

孝成王は趙括の起用を強行したものの、彼女の嘆願だけは認めた。

こうして、趙括は長平の戦いの総大将となった。

画像 : 総大将になった趙括(ちょうかつ)イメージ 草の実堂作成

就任後、趙括はまず軍の編成を変更し、それまでの持久戦から一転して積極的な攻勢へと転じる計画を立てた。
慎重だった廉頗の戦術を全否定し、秦軍に対して正面からの総攻撃を計画したのである。

しかし、彼の前には秦の名将・白起(はくき)が待ち構えていた。

罠に嵌まった趙括の悲劇

趙括の就任を知った秦は、すぐに動いた。

趙括の軍事的未熟さを見抜いていた秦の昭襄王(しょうじょうおう)は、長平に派遣していた将軍・王齕(おうこつ)を副将とし、名将・白起(はくき)を総大将に任命した。

白起

画像 : 白起 public domain

白起は、これまで数々の戦いで敵軍を徹底的に殲滅し、冷徹な戦術で勝利を積み重ねてきた戦の天才であった。
後に「人屠(じんと)※人を屠る将軍」と称された彼は、この戦いでも徹底した殲滅戦を展開した。

白起は趙括の性格を巧みに利用し、誘導戦術を仕掛けた。

趙括が積極的に攻勢を仕掛けたところで、秦軍は巧妙に退却し、趙軍を長平の険しい地形へと引きずり込んでいったのだ。
趙軍は次第に隊列が伸びきり、戦列の統制を失い始める。

すると、白起は待ち伏せていた伏兵を動員し、趙軍の後方を遮断した。さらに別動隊に側面から攻撃を仕掛けさせ、趙軍を完全に包囲したのである。

こうして趙軍は孤立し、兵站の補給を絶たれた。

長平の地形は山がちで食糧の確保が困難なため、兵士たちは飢えに苦しみ、士気は急速に低下していった。
46日間にわたって補給を断たれた趙軍の内部では、ついに凄惨な状況が発生する。飢えに耐えかねた兵士たちは、味方同士で殺し合い、肉を奪い合う地獄絵図となった。

この事態に対し、趙括は打開策を模索するが、すでに選択肢はほとんど残されていなかった。
彼はわずかに残った精鋭を率いて突破を試みることを決意し、秦軍の包囲を突き破ろうとした。

しかし、白起はこの動きをも予測していた。

趙括の部隊が包囲網を突破しようとした瞬間、秦軍の弓兵隊が集中射撃を浴びせ、ついに趙括は戦場で命を落としたのである。

40万人が埋められる

趙括の戦死によって指揮系統が崩壊した趙軍は戦意を喪失し、降伏を決意する。

降伏した趙兵の数は40万人を超え、戦闘で死亡した兵を含めると、その数は45万人にも及んだ。

通常、降伏した敵兵は捕虜として扱われるか、身代金と引き換えに解放されることが多かった。

しかし、白起は「趙兵を生かしておくことは、後の脅威になる」と考えた。
彼らを秦の兵士として取り込むことは現実的ではなく、解放すれば再び趙に戻り、立ちはだかる可能性は高かった。さらに、これほどの大軍を捕虜として維持するには膨大な食料が必要であり、秦軍がそれを負担するのは困難だった。

こうした状況を踏まえ、白起は降伏兵を全員処刑することを決断する。

白起の命令により、降伏した趙兵は数日かけて移送されたのち、組織的に処刑された。
『史記』によれば、240名の少年兵以外はすべて「阬殺」、すなわち「生き埋め」にされたという。

画像 : 長平の戦い イメージ 草の実堂作成

卒四十萬人降武安君。武安君計曰:『前秦已拔上黨,上黨民不樂為秦而歸趙。趙卒反覆。非盡殺之,恐為亂。』乃挾詐而盡阬殺之,遺其小者二百四十人歸趙。

意訳 : 降伏した趙軍の兵士40万人は武安君・白起のもとに投降した。
白起は考えた。「以前、秦は上党を制圧したが、上党の住民は秦に従わず趙に帰属した。趙の兵士たちはそのように再び敵対する可能性がある。もし彼らを全員殺さなければ、将来必ず脅威となるだろう。」

そこで、白起は策略を用いて彼らを欺き、40万人の降伏兵を阬殺(生き埋め)にした。ただし、年少の者240人だけは趙に送り返した。

『史記』白起王翦列伝 より引用

趙は一挙に40万以上の精鋭を失い、軍事力は壊滅的な打撃を受けた。

以降、戦国時代の趨勢は、秦の覇権へと大きく傾くこととなる。

紙上談兵

長平の戦いは、戦国時代最大の惨劇を生んだ会戦であり、趙括の無謀な指揮がその大きな要因となった。

趙括は自らの兵法知識に絶対の自信を持ち、机上の理論のみで戦争を指揮した。その結果、40万人の兵士が包囲され、飢餓の果てに降伏し、最終的に白起の決断によって未曾有の惨劇が起こった。

趙括には戦の経験がなかったため、ある程度の失敗は避けられなかったかもしれない。しかし、問題の本質はそこにはなかった。
彼の父・趙奢は、生前から趙括の資質を見抜き、「知識を得ても、それを実戦で活かせる資質はない」と評価していた。
もともと自らの考えに固執しがちで、変化に対応する柔軟さに欠けていた人物だったのかもしれない。

趙括の失敗は、後に「紙上談兵」という成語を生み、理論だけで戦を語る愚かさの象徴となった。現代においても、この故事は「机上の空論」の典型例として語られることが多く、知識と実戦経験の乖離がもたらす悲劇の教訓として今なお語り継がれている。

参考 : 司馬遷『史記』巻七十三「白起王翦列伝」、巻八十一「廉頗藺相如列伝」他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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コメント

    • 名無しさん
    • 2025年 9月 28日 5:38am

    白起は悪く書かれがちだが
    敵兵、投降者の殺害、及び殲滅は秦の長年の常套であり、白起の独壇ではなく。李信も行ったハズである。
    また、長平では
    耳削ぎは行われず、生き埋めが多かった事から
    一兵卒までの報奨をケチった。証拠無しの、ただ殺すという残酷な結果を秦から指令されたのかもしれない。

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