絶世の美女、だが“完璧”ではなかった?

画像 : 浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃 public domain
楊貴妃(ようきひ)は、中国史上においてもっとも名高い美女の一人である。
唐の第9代皇帝・玄宗に寵愛され、その美貌は「傾国の美女」とまで称された。
後世においても「中国四大美人」の筆頭として語られ、詩や絵画、戯曲など数々の作品にその名を残している。
しかし、いかに美しいと讃えられた人物であっても、人間である以上、完全無欠であるはずがない。
実際、楊貴妃については、その華やかな姿の裏側に、一部の人々が「生理的に受けつけない」とするほどの欠点が存在したという説がある。
伝承によれば、楊貴妃には「強い体臭」があったという。
唐代の説話集や逸話を集めた文献では、彼女の芳香について語られた場面がしばしば登場するが、それは実は「体臭隠し」だったというのだ。
「選ばれし女」楊貴妃

画像 : 楊貴妃 public domain
楊貴妃の本名は、楊玉環(よう・ぎょくかん)という。
生まれは弘農華陰と伝えられるが、幼少期には蜀の地(現在の四川)で育ったともされる。
美しく、ふくよかで、音楽と舞の才に長けた才色兼備の女性であり、後に唐の皇子・李瑁(玄宗の第十八子)の妃となったことが、すべての始まりであった。
ある日、玄宗が彼女を目をとめたとき、息子の妃であるにもかかわらず、すっかり気に入ってしまったのだ。
とはいえ、すでに李瑁の妃であった楊玉環をそのまま宮中に迎えることはできなかった。
そこで形式上、彼女をいったん女道士とし、太真の号を授けて内道場に住まわせたのち、改めて後宮に迎え入れる段取りを整えたのである。
こうして、天宝4年(745年)には「貴妃」として正式に冊立され、以後、後宮において皇后に準ずる権勢をふるった。
美貌の裏側に囁かれた「生理的な欠点」の噂

画像 : 「楊貴妃図」高久靄厓筆 public domain
このような華やかな経歴を持つ楊貴妃であるが、先述したように「体臭が強かった」という、意外かつ微妙な逸話が残されている。
この話は、正史に記録されているわけではないが、後世の伝奇や逸話集にたびたび登場し、広く知られるようになった。
特に『楊太真外伝』などでは、彼女が異常なまでに香料を用い、入浴にこだわっていた様子が描かれている。
たとえば、華清宮には楊貴妃専用の「蓮花湯」と呼ばれる湯殿が設けられ、香を焚きしめた浴場でたびたび沐浴していたという。
また、皇帝・玄宗自らが南海から「瑞龍脳」という希少な香料を取り寄せ、彼女に贈っていたことも記録に見られる。
これらの描写は、彼女の嗜好を示すものであると同時に、裏を返せば「香料で、匂いを隠していたのではないか?」という憶測の種にもなった。
実際、当時の貴族女性は香を焚くのが一般的であったが、楊貴妃にまつわる香料の量と種類は、あまりに群を抜いているのだ。
さらにもう一つ、彼女の欠点として知られるのが「いびき」である。
こちらも唐代の風流文学に見られる逸話で「玄宗が夜中に楊貴妃の寝顔を見ようと訪れたところ、深く眠り、大変大きないびきをかいていた」という逸話がある。
それにしても、絶世の美女であるはずの楊貴妃に「体臭」や「いびき」といった噂が語り継がれてきたのは、いったいなぜなのか。
それは、半ば神格化された存在だからこそ、どこかに人間らしさを見たくなる…そんな後世の人々の思いから、こうした噂が生まれたと考えられる。
また、楊貴妃に限らず、中国四大美人のうち、王昭君にも「汗かきであった」とする逸話がある。
つまり、美しさがあまりに突出すると、それを引き戻すような欠点が語られやすいのかもしれない。
死してなお、愛された理由

画像 : 玄宗皇帝と楊貴妃 public domain
玄宗と楊貴妃の関係は、やがて帝国を揺るがすほどの深い寵愛へと発展していった。
その偏った愛情は、やがて政務の停滞や人事の私物化を招き、国家の統治機構を脆弱なものとしていく。
そして755年、ついに節度使・安禄山が反旗を翻し、「安史の乱」と呼ばれる未曾有の内乱が勃発した。
反乱軍は勢いを増し、長安は混乱と恐怖に包まれた。
もはや首都を守る術はなく、皇帝一行はやむなく都を捨て、蜀の地へと逃れる決断を迫られることとなった。
しかし、その逃避行の途中、宿営地・馬嵬坡(ばかいは)で、兵士たちの怒りが爆発してしまう。
反乱の原因は、楊一族の専横にあるとして、楊国忠ら一族は殺され、楊貴妃にもその責任が及んだ。
玄宗は葛藤の末、ついに愛妃に死を命じたのである。
泣き崩れながら最後の祈りを捧げた彼女は、梨の木の下で首を絞められ、その短い生涯を閉じたと伝えられている。

画像 : 馬嵬駅付近に残る楊貴妃墓 wiki c Rolfmueller
ふくよかな体型、腋臭の持ち主、いびきの逸話…その真偽は定かではないが彼女が男心をつかんで離さない「何か」を持っていたことは間違いないだろう。
玄宗は最後まで楊貴妃を手放そうとはしなかった。死後もその想いは薄れることがなく、彼女の遺品を抱いて涙し、姿を描かせてはひとり静かに見つめる日々が続いたという。
彼女の名は、死してなお、唐王朝最大の愛妃として、永遠に語り継がれることになったのである。
参考 : 『旧唐書』巻五十一「后妃伝上」『楊太真外伝』他
文 / 草の実堂編集部
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