1. はじめに
土佐の戦国大名で知られている長宗我部氏について取り上げる。
ここでは、最初に長宗我部氏の始まりと土佐に移った経緯について取り上げる。次に、土佐に移ってから戦国大名になって、戦国大名として四国を平定するまでの過程について取り上げる。
四国を平定してから、関ケ原の戦いで敗北した後の長宗我部氏と幕末までの土佐については「関ケ原の戦い以降の長宗我部氏と土佐について」で取り上げる。
2. 長宗我部氏の始まり
長宗我部氏の始祖は秦の始皇帝であると言われている。
※始皇帝 贏政(えいせい)
秦の始皇帝には5人から10人の後継者がいたとされ、その後裔が孝武王・功満王という記録が残されている。功満王の代に朝鮮半島を経由して日本に渡来し、帰化したと伝えられている。
日本に帰化したときの天皇は仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二子にあたり、神功皇后(じんぐうこうごう)の夫であると言われている。
日本に渡来して帰化した当初は、日本の朝廷から姓を授けられることはなかったが、やがて仁徳天皇(にんとくてんのう)の代になり、秦という姓を授けられた。以降、秦と名乗るようになったと伝えられている。秦氏は養蚕で財を成したと言われている。
6世紀後半から7世紀半ばは秦河勝の代で、聖徳太子の定めた冠位十二階で上から2番目の地位「小徳」を授けられた。朝廷に経済的な援助をしていたことが評価されたと思われる。その後、蘇我馬子と物部守屋との戦いで蘇我馬子側につき、勝利した。
信濃国に移ることになるが、朝廷とのパイプを保っていたことで交流が続いていたという記録が残っている。
信濃国に移ってから朝廷と繋がっていたものの特に大きな事件が起こらなかったが、平安時代の末期に後白河天皇と崇徳上皇との後継者問題に端を発した「保元の乱」が起こった。
当時の秦氏の当主は能俊(よしとし)で、保元の乱では敗れた崇徳上皇の側についた。
崇徳上皇は保元の乱で敗れたのち、讃岐国に流された。その後を追って、秦能俊は土佐に移ったという記録が残っている。土佐国にある長岡郡にある宗我部村を拠点としていたことから、秦から姓を「長宗我部」と改めたと言われている。これが土佐の戦国大名として知られた長宗我部氏の始まりである。以降、都にいた頃からの人脈である藤原氏や一条氏などと交流があったと言われ、土佐での地盤を固めることになる。
長宗我部氏が土佐にきて350年経ってから、居城であった岡豊城が地場豪族の襲撃を受けた。敗色濃厚になると養子の千雄丸を城から逃し、応仁の乱で逃れていた一条家に匿われた。長宗我部氏は土佐での地盤を失いかけたが、このことがきっかけで再び土佐の戦国大名になるのである。千雄丸は後の長宗我部国親で、四国を平定した長宗我部元親の父にあたる人物である。
3. 長宗我部氏の四国平定
※絹本著色長宗我部元親像
長宗我部国親の後を継いだ元親は、土佐独特の半農半兵の兵士「一領具足」を動員して四国を平定したと言われている。
ここでは、長宗我部元親が土佐を統一してから、四国を平定するまでの過程について取り上げたい。
戦国時代の土佐以外の国については阿波・讃岐から畿内にかけて勢力を拡大していた三好氏と伊予の河野氏が支配していた。
最初に、四国平定に向けて、阿波と讃岐の戦国大名の三好氏を攻める。三好氏は畿内で織田信長との戦いで敗れ衰退していたが、四国では三好の家臣らの抵抗が激しく、平定までにかなり時間がかかったと言われている。三好長治が戦死してから三好氏は衰退し、1580年までに阿波と讃岐を平定したと言われている。
1582年に織田信長が四国平定に向けて淡路島から兵を送る予定であるという情報が入ったが、本能寺の変により信長による四国遠征はなくなり、長宗我部氏は危機を脱した。
阿波と讃岐を平定してから、伊予への侵攻を開始する。伊予国は河野氏が支配していたが、長宗我部氏が侵攻を開始すると、毛利氏が援軍を送ったことにより、平定まで長期化することになった。その後、河野氏の援軍である毛利軍が劣勢になったことから1585年までに伊予国の平定が完了し、四国を統一することができたと言われている。
4. まとめ
この記事では、長宗我部氏の始まりと長宗我部氏が土佐の戦国大名として四国を平定するまでの過程について取り上げた。
長宗我部氏の始祖が秦の始皇帝であることや渡来人として飛鳥時代に来日し、後に帰化したことについてはほとんどの読者が意外であったと感じるかもしれない。長宗我部氏は国人から台頭した戦国大名で、土佐を統一し、四国を統一した人物という印象を受けるかもしれない。
四国平定後の長宗我部氏、関ケ原の戦いで改易されてからの長宗我部氏、長宗我部氏の後の土佐については「関ケ原の戦い以降の長宗我部氏と土佐について」で取り上げたい。
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