朝鮮半島で唐と新羅が激しく争っていた7世紀半ば、日本は先進国である唐に習いながら、中央集権国家を着々と整えていました。
この改革の舵取りをしていたのは、持統天皇と側近である藤原不比等でした。
前回の記事「【飛鳥・奈良時代の日本】 なぜ唐を意識せざるを得なかったのか?」では、「天皇」の号や「日本」という国号、また「藤原京」などについて見てきました。
【飛鳥・奈良時代の日本】 なぜ唐を意識せざるを得なかったのか?
https://kusanomido.com/study/history/japan/77482/
今回の記事では、日本の国家建設における集大成とも言える、日本の歴史書『日本書紀』に焦点を当てたいと思います。
『日本書紀』の執筆者
日本の古代史を伝える重要な文献として『古事記』と『日本書紀』があります。
『古事記』は712年に完成し、国内の豪族向けのPR書として「天照大神を天皇家の先祖とし、出雲の大国主が国を譲った」という物語を伝えています。
720年に成立した『日本書紀』は、日本が唐に劣らず古くから立派な国であることを示す公的な歴史書になります。
言語学者である森博達の研究によると『日本書紀』は、持統天皇と文武天皇のときに書かれた文章を比較すると、文字の使い方に明らかな違いがあるそうです。前者は渡来人が書いた漢文で、後者は新羅に留学した日本人の漢文と推定されるそうです。
この驚くべき説は大きな話題を呼びました。
中国の歴史書を踏襲
中国の歴史書は「紀伝体」と呼ばれる形式で記述されています。
– 「本紀」 – 皇帝の業績
– 「志」 – 地方や国土、文化について
– 「世家」「列伝」 – 臣下や人民の業績
– 「表」 – 年表や家系図
上記の記述スタイルは、司馬遷の『史記』に始まり『漢書』『後漢書』と受け継がれ『明史』に至ります。
当初は『日本書紀』も『日本書』として計画され、『風土記』はそのための下調べだったと考えられています。
天武天皇の時代に『日本書紀』の編纂は開始され、約40年続きました。720年に藤原不比等が亡くなると「本紀」に相当する部分が完成したとされていますが、実際には中断ではないかと指摘されています。
『日本書』から『日本書紀』へ
また当初の計画だった『日本書』は「(本)紀」が付け加えられて『日本書紀』となったという説もあります。
「本紀」は、皇帝や君主の統治に関する年代記を意味し、その治世下での主要な出来事や政策を年代順に記述します。
したがって『日本書』に「紀」が付け加えられたことは、天皇の統治に関する内容を足して、より包括的な歴史書としての性格を持ったことを意味します。『日本書』から『日本書紀』への変更によって『日本書紀』は、日本の皇室や国家の歴史を詳細に記述する公式記録としての性格を強めたと考えることができます。
日本の歴史を見ると『日本書紀』のような大事業が完成するのはレアケースです。未完成品であっても天皇に関する形式的な記録さえあれば、対外的には十分だとされたのでしょう。
『日本書紀』の信憑性
『日本書紀』は神武天皇から始まりますが、初期の記述は簡潔で天皇名もシンプルです。この特徴は歴史書としては一般的であり、過去の記述ほど薄く、最近になるほど詳細になる傾向があります。
旧約聖書も最近の出来事から過去を投影した構成になっています。「ノアの箱舟」に関しては、バビロン捕囚時にメソポタミアの洪水伝承を取り入れた創作という説があります。
また『帝紀』と『旧辞』が「乙巳の変」で焼失したエピソードには奇妙な点があります。『帝紀』と『旧辞』は、聖徳太子が編纂したと言われる歴史書です。
なぜライバルの蘇我蝦夷が二つの歴史書を所持していたのかは不明ですが、事実上の最高権力者が蘇我氏だったことが関係しているかもしれません。「焼けた以上、新たに歴史を書き変えても良い」という口実のために生まれた伝承である可能性も考えられます。
中国などでも「歴史は勝者が記述すべき」という意識が強いため、蘇我氏のエピソードにもそうしたメッセージが含まれているかもしれません。
天皇を正統化するための神話
『日本書紀』には、天武天皇から聖武天皇に至る王朝を正統化する逸話が多数入っています。藤原不比等の意図によるものでしょう。
持統天皇は息子である草壁皇子が亡くなった後、草壁皇子の息子である文武天皇を即位させました。当時15歳という異例の若さであり、前例がほとんどありませんでした。
そこで藤原不比等の指示によって、異例だった文武天皇の即位を正当化するため「高天原神話」が創作されたのだろうと考えられています。天照大神が自らの孫である瓊瓊杵尊(ニニギ)に位を譲ったという物語です。「天照大神が孫に位を譲ったように、持統天皇も文武天皇に譲ったのだ」とできるからです。
文武天皇が707年に早世すると、文武天皇の母が元明天皇として即位しました。
このとき文武天皇の子である首皇子(のちの聖武天皇)はまだ7歳と幼かったため、元明天皇が代行することになったわけです。元明天皇の時代に平城京遷都など、重要な国家体制の整備が進められています。
そして724年、聖武天皇は24歳で即位しました。
この時点において、天皇号の制定、「日本」の国号制定、平城京への遷都、服飾・律令の整備、『日本書紀』の編纂など、日本は国家としての体制が整いつつありました。
そのため約30年ぶりに遣唐使の派遣を再開し、唐に対して国家体制の確立をアピールすることができたのです。
上記のような歴史から、日本は国家として本格的なスタートを遂げることができました。
飛鳥・奈良時代とは「日本」という国家が誕生する、大きな契機となった時代だと言えるでしょう。
参考文献:
森 博達(1999)『日本書紀の謎を解く − 述作者は誰か』中央公論新社
出口治明『0から学ぶ「日本史」講義 中世篇』文藝春秋
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