奈良時代

奈良時代について調べてみた【鎮護国家を目指して】

奈良時代は、710年に平城京へ都が遷ってから平安京に遷都するまでの期間を指す。

長岡京の10年間を奈良・平安のどちらの時代に区分するかについては諸説あるが、いずれにせよ奈良時代は100年に満たない。しかし、律令国家になり、大陸との交流が始まった飛鳥時代を経て、新たなる都として整備されたのが平城京であった。

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物流拠点・平城京

 

奈良時代
※平城京 条坊図

この時代の舞台となった平城京は、唐の長安をモデルにしている。京城は東西約6.8km(外京も含む)、南北約4.7km(北辺坊を除く)の規模を誇り、道路が碁盤の目のように延びている。飛鳥時代の藤原京は広さでは平城京や平安京を上回るが、わずか16年で遷都することになり、平城京の完成は天皇の権威を示すには絶好の機会であった。

平城京には5万人から10万人が住んだとされており、貴族や役人、僧侶のほか、物資の輸送や労役、兵役で地方から集まった人々が住んでいた。また、奈良時代には地方の行政制度も整備され、平城京には各地の税や食材が七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)を経由して運ばれた。

このため、平城京は物資流通の拠点となり、中央集権体制の中心地にもなったのである。

律令国家の成立

天智天皇・天武天皇が夢見た律令国家の成立は、文武(もんむ)天皇により完成した。

701年(大宝元年)、日本で初めての本格的な律令である「大宝律令」が制定された。唐の律令制を参考にしつつ、日本の実情に見合うように手が加えられたものだ。

律令の完成によって国家を支える中央官庁も二官八省に整備され、最高行政機関である太政官(だいじょうかん)が重要な役割を担うようになる。最高責任者として太政大臣が置かれ、その下に左大臣右大臣大納言といった後の世でも耳にすることの多い役職が置かれるようになった。

また、712年(和銅5年)には太安万侶(おおのやすまろ)が日本最古の歴史書である「古事記」を奏上し、720年(養老4年)には舎人親王(とねりしんのう)らが「日本書紀」を奏上するなど、文化的にも重要なエピソードが残っている。


※日本書紀(平安時代の写本)

飛鳥時代から奈良時代にかけては歴史的な大事業が次々と実行されたが、これらに携わって手腕を発揮したのが、藤原不比等(ふじわらのふひと)である。

彼は、「乙巳の変(いっしのへん)」で中大兄皇子とともに蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足の子で、天皇家とも結びつき、千年以上にわたって繁栄した名門・藤原氏の礎を築いた人物である。

遣唐使の再開

朝鮮半島における白村江(はくそんこう)の戦いで大敗を喫して以降、日本は唐の侵攻に備えて律令国家の建設を急ピッチで進めた。そして、大宝律令の制定によって中央集権体制が整い、唐との関係改善に乗り出す。

702年(大宝2年)、遣唐使が33年ぶりに派遣されることになったのだ。

これを機に唐との関係は良好になり、その後は約20年に1度の割合で遣唐使が派遣されることになる。当時の航海は命がけで、途中で船が難破して命を落とすこともあった。なかには、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)のように、日本への帰国を果たせないまま大陸の地で亡くなった者もいた。

そこまでして人々が唐に渡ったのは、大陸の先進的な文化や技術、政治制度などを吸収するためである。

日本初の外交として始まった遣隋使よりも目的は明確になり、唐から帰国した留学生のなかには吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)のように中央政界で活躍するものもいた。


※吉備真備像(倉敷市真備支所)

唐にはシルクロードを経由して西アジアの文化も流れ込んでいたが、遣唐使によってそれも日本に伝えられた。

その結果、国際色豊かな天平文化が花開く。

飛鳥時代に興隆した仏教文化も引き続き盛んで、東大寺唐招提寺(とうしょうだいじ)など多くの寺院が築かれた。

文学の開花と権力争い

詩歌の世界では、日本最古の歌集である「万葉集」が成立し、大伴旅人(おおとものたびと)、家持父子(おおとものやかもち)や山上憶良(やまのうえのおくら)、山野辺赤人(やまのべあかひと)といった優れた歌人が現れた。また、日本最古の漢詩集である「懐風藻(かいふうそう)」も完成し、文学の世界もにわかに華やいだのである。

奈良時代はこうした文化の興隆が見られた時代だったが、一方で政治の世界では激しい権力闘争が繰り広げられた。朝廷を牽引してきた藤原不比等が720年(養老4年)に没すると、皇族の長屋王(ながやおう)が政治の実権を握る。ところが不比等の子である藤原四兄弟が策謀を仕掛け、長屋王に謀反の疑いを掛けた。これによって追い込まれた長屋王は自害し、四兄弟の時代が訪れたのであった。

大仏造立

聖武天皇の治世には、全国に国分寺と国分尼寺を建てる詔が発せられた。

さらに743年(天平15年)には、盧舎那仏像造立の詔を発し、東大寺での大仏造立が始まった。

天皇は鎮護国家の思想に基づき、仏教で社会を鎮めようとしたのだ。


※東大寺盧舎那仏像

各地で様々な土木事業を手掛け、民衆からも慕われていた行基(ぎょうぎ)が大仏造立の勧進(資金調達のために寄付を募る役)に起用され、大仏は7年がかりで完成したのである。

そして、752年(天平勝宝4年)に大仏開眼供養会が催された。

最後に

政治的に権力闘争が繰り広げられるのは世の常であるが、律令国家としての機能が働き、多くの文化が花開いた時代が奈良時代である。

しかし、その一方で庶民の暮らしは困窮を極め、農民たちは縄文・弥生時代に逆戻りしたかのように竪穴式住居に住むことを余儀なくされ、重税に苦しめられた。

皇族や貴族と、庶民との間に大きな溝が生れたのも奈良時代の特徴である。

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