日本人に馴染み深い宗教といえば、神道と仏教の2つであろう。
一般的に言われているのは、神道は日本固有の宗教であり、仏教は大陸から伝わった宗教である。
では、神道=神と、仏教=仏を比べた時、日本ではどちらが上の立場であったのか。
今回は、いわば神と仏が一体化した神仏習合という特異な見地から、神道・仏教のどちらが上位にあったのかを考察してみた。
神道という言葉は仏教に対して生まれた
神道の起源について、神社本庁は以下のように述べている。要点をまとめてみよう。
「自然の力は人間に恵みを与える一方、猛威も振るう。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知した。また、あらゆるものを生む、生命力も神々の働きとして捉えた。そして、山・岩・木・滝などの自然物にも神が宿るとして、お祭りをするようになった。6世紀に仏教が伝来した際、この日本固有の信仰は、仏教に対して神道という言葉で表わされるようになった。」(神社本庁HPより抜粋)
つまり神道という言葉は、仏教に対して生まれた言葉であり、日本においてはこの2つの宗教が複雑に絡み合いながら、神仏習合というカタチで競合していくのである。
当初仏は「新手の神」として認識された
仏教が百済から日本に公式に伝来したのは『日本書紀』によると、552(欽明天皇13)年のこととされる。この仏教公伝に関しては、『元興寺縁起』などでは538年とある。
この時、百済の聖明王から贈られた金銅製釈迦像を見た欽明天皇は、群臣たちに仏を拝むべきかどうかを問うた。
これに対し、蘇我稲目は「崇仏」を主張。一方、物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子は、「排仏」を主張した。
尾輿らは、「古来より日本は天皇を中心に神々を祀ることに務めていたが、もし蕃神(あだしくにのかみ)を拝すれば、国神(くにつかみ)の怒りを受ける」と奏上したのだ。
ここで注目したいのは、仏教を「蕃神」と呼び、古来の神々を「国神」と呼んでいることだ。
つまり仏教公伝の頃は、仏を「新手の神」と捉えていたことになる。
だが、この考えは飛鳥・奈良と時代が降るにつれ、大きな変化を遂げるのである。
天武朝までは神と仏は対等の関係だった
百済から公伝した仏教をめぐり、崇仏派と排仏派は激しく対立した。
そして、587(用明天皇2)年に、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことにより、排仏派は完全に敗北を喫することになる。
この後、聖徳太子による四天王寺・法隆寺、馬子による飛鳥寺。さらには、舒明天皇による百済大寺などが建立され、仏教は日本社会に徐々に浸透していった。
一方、神道も672年の壬申の乱で勝利した天武天皇が即位すると、天皇=神という「現人神思想」を掲げ、天照大神を皇祖神として仰ぎ、伊勢神宮を創設した。
天武は、大化の改新事業の一大目標であった律令制整備のうえで、朝廷を中心とした神社祭祀制度を確立したのである。
つまり、この時点では神と仏は、競合関係にはあるものの「対等」ともいえる関係だった。
奈良時代以降、神仏習合で仏が神の上位に
しかし、神と仏の対等な関係は、奈良時代に入ると大きな変化を遂げた。
その一つとして、神社の近辺に、あえて寺院=神宮寺が建てられ始めた。
福井県敦賀市の気比神宮、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、伊勢神宮などがその代表例だ。
これが、神道と仏教が融合し、一つの信仰体系として再構成された「神仏習合」の始まりである。
ここで、神と仏の対等関係は崩れる。結論から言うと、仏が上位で神が下位という関係が成立した。
この考えは、仏教の論理から生まれたものだが、飛鳥時代後期の持統・文武両天皇の仏教への信仰心が影響を与えたともいえるだろう。
天皇の仏教への傾倒は奈良時代になるとさらに著しく、大仏建立を境に聖武天皇は、自らを「三宝(さんぽう)の奴(やっこ)」(仏の奴婢)と称するほど篤く仏教に帰依していった。
ちなみに、日本で最初に火葬に付されたのは、700(文武天皇4)年、飛鳥寺の僧・道昭だ。
その3年後に1年間のもがりの期間を経て持統、そして文武・元明と天皇が火葬に付されている。
元々、日本には火葬という風習はなく、仏教によって伝えられたものだ。もちろん、その後の全ての天皇が火葬に付されたわけではないが、例外は数例に過ぎない。
そして、重要なのは飛鳥後期・奈良時代から江戸時代まで、天皇の葬儀は全て仏式で行われ、神式で行われたのは明治・大正・昭和天皇のわずか3回に過ぎないということだろう。
神道に比べて後続の信仰である仏教は、それほど天皇および日本社会に浸透していったのである。
現在、対等の関係に戻った神道と仏教
仏が神よりも上位にあるとされるのは、仏教の論理によって考え出されたことだった。
それによると、天界には「天・天神・天人」=「デーヴァ」という神のような存在がいるという。
デーヴァは、サンスクリット語で神を現わす。
デーヴァが住む世界をデーヴァローカと呼び、漢訳すると天・天界・天道・天上界になる。
デーヴァは、人間よりも高級だが、仏の境地には達していない。それ故に、悩み苦しむ衆生の一つとされる。
だから神は、仏教上では修行途中の段階にある存在とされた。これが、神仏習合の本質で、神よりも仏が上位にある根拠となったのだ。
奈良時代に成立した『藤氏家伝』には、藤原不比等の長子・武智麻呂の夢の中に気比の神が現れ「自分は宿業により神となった。これからは仏道に帰依して修行に励みたい。」語っている。
また、『日本後紀』には、深山で修業中の男に若狭の神が「私は神の身であるから苦悩が多い。仏法に帰依して神の境遇から免れたいがその願いは果たされない。」と嘆いている。
このように、神はその身であることに苦悩し、その苦しみから逃れるために仏教に帰依したいという姿が描かれているのだ。
こうして日本では江戸時代までは、仏が神よりも上位にあるという概念が根付いたのである。
ただ、この考えは「王政復古」の大号令のもと、神道を天皇崇拝を掲げる明治新政府にはすこぶる都合が悪かった。
維新政府の幹部たちは、神道を仏教の影響を受ける前の状況に戻す必要があり、これが廃仏毀釈に繋がっていった。
文化庁『宗教年鑑』2021年版によると、2020年の段階で日本国内における神道の信者数が、8,790万人(48.5%)。そして仏教が、8,390万人(46.3%)だそうだ。
この統計を見ると確かに神道=神と、仏教=仏は、「対等」の関係に戻ったと言えるだろう。
※参考文献
網野善彦著 『日本の歴史をよみなおす』 ちくま学芸文庫刊 2024.2.10
古川順弘著 『神社に秘められた日本史の謎』 宝島社刊 2024.9.18
文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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