日本人なら誰もが知る、日本史上最大の偉人が「聖徳太子」である。
歴史の授業でも学び、彼の偉業は現在まで伝えられている。しかし、その内容を覚えている人はどれだけいるのか。なにせ、漢文の史料しかない時代のことで「難しそう」というイメージばかり先行して調べなおす人も少ない。
そこで今回は、聖徳太子とはどのような人物で、どのような偉業を成し遂げたのかを分かりやすく伝えるために調べてみた。
聖徳太子、歴史の表舞台へ
※聖徳太子
今さらだが「聖徳太子」という名は本名ではない。これはよく知られていることだが、本名を「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」という。聖徳太子とは、没後に後世の人々が彼の偉業に対して贈った名であった。
574年、用明天皇の次男として生まれる。
時は飛鳥時代。古墳時代が終焉を迎え、現在の奈良県にある飛鳥地方に都が置かれていた時代。また、初めて仏教が日本に伝えられた時代でもあった。しかし、この仏教の伝来が、ある対立を生み出すことになる。
「仏教を取り入れるべき」という蘇我馬子と、「仏教は必要ない」とする物部守屋。この二人の有力者が対立していたのだ。587年に用明天皇が崩御すると、その対立の火の粉が聖徳太子にも降りかかる。
二人の対立は皇位を巡る争いにまで発展したためだった。そこで聖徳太子は、蘇我馬子とともに物部氏を滅亡させると、推古天皇を皇位に就ける。一方で自らは皇太子となって史上初の女帝を馬子とともに補佐する立場に収まった。
ここから、後の世に語り継がれる聖徳太子の活躍が始まるのだ。
遣隋使の始まり
※小野妹子が国書を渡した隋朝の第2代皇帝「煬帝(ようだい)」
600年、聖徳太子は初めて「隋」に使節を送った。「遣隋使」の始まりである。
遡ること5年前、聖徳太子の師となった慧慈(えじ)は高句麗の僧であり、大陸の事情にも通じていた。その慧慈は「隋は強大で、官制は整備され、仏法を保護している」ことなどを聖徳太子に教えている。このことから、聖徳太子は隋の近代的な制度を日本にも取り入れるべく、使者を送ったのである。
とはいえ、最初は外交儀礼なども覚束ない状態。国書も持たずに隋へ渡ったが、初代皇帝・楊堅(ようけん)との謁見は果たすことができた。このときの様子を残す記述は「日本書紀」などの日本側の文献にはない。隋に残っていたものだけだが、607年の小野妹子の派遣からは「日本書紀」に記されている。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
という文言に皇帝が立腹したという有名な話だ。しかし、皇帝が立腹したのは天皇を「天子」と名乗ったことに対してであった。「天子」とは皇帝の意味であり、それは日本が大国「隋」の皇帝と、天皇を同格に考えていると思われたからだという。
だが、その後は隋へ留学生を送るまでになり、当初の目的は果たされた。
冠位十二階の制定
飛鳥時代よりも前の古墳時代には、ヤマト王権が日本初の統一政権として各地の豪族をまとめた形にはなっていたが、豪族にしてみれば「我こそ、この地の王」と考えていた時代である。天皇を中心に統一国家としての「倭国」を治めていこうという意識は薄かったに違いない。そのため、聖徳太子の時代においても、中央の役人の身分は「一族」に対して与えられていた。
能力よりも血族主義を重んじていたのだ。
それを能力主義に改めるため、聖徳太子が制定した制度が「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」であった。
「日本書紀」には604年に制定されたとある。12の官位が身分を表し、能力のあるものほど高い官位を天皇より与えられる。これは当時、隋ではすでに確立されていた制度であった。官位が存在しないままでは、いつまでも隋には追いつけない。さらに外交上も日本の面子が保たれるという目的もあった。
十七条憲法の制定
603年に冠位十二階を定めた聖徳太子は、翌年には官僚・貴族といった政治の中枢、つまり、役人に向けた規範である「十七条憲法の制定」を制定した。
冠位十二階により世襲制を廃止しても、役人の心構えが変わらなくては意味がない。そのため、道徳的な観点より十七条の「心得」を示したのである。その内容は仏教や儒教の思想を反映したものとなっており、憲法とはいうものの「法」というより「教え」といったほうがいい。
第一条では「人と争うのではなく、和をもって物事を成しなさい」と説き、第十七条でも「大事なことは一人で決めないこと。必ず皆で相談して決めなさい」と書いてあるように、「和」が大切だということを強調している。いかに当時の日本に統一性がなかったのかが分かる内容だ。
さらに第三条では「天皇の命令はしっかりと聞きなさい。天皇を天とするなら、家臣は土です。天皇の言葉は謹んで聞きなさい」と天皇に絶対的な権力があることも示している。
聖徳太子は存在しなかった?!
※天武天皇
近年になり、過去の偉人の通説を覆す学説や、推測が発表されることが多い。
聖徳太子もその一人である。
実は、「聖徳太子は存在しなかった」というのだ
聖徳太子が本名じゃないのは述べたとおりだが、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」は実在の人物である。よって「聖徳太子のモデル」はいた。しかし、厩戸皇子は伝えられるような活躍をしたかというと、そこに疑問符がつくという。
19歳で用明天皇の補佐をするまでになり、遣隋使に始まる数々の功績を残した聖徳太子。しかし、あまりに人間離れした業績ではないか。そこまでの偉業を成し遂げたからからこそ「聖徳」の名を贈られたとも考えられるが、「憲法十七条」も「冠位十二階」も彼が主体となって制定したという確実な証拠はない。
厩戸皇子の没後五十年ほどして、「壬申の乱」という皇位継承争いが起きて天皇の権威は地に落ちた。そこで、当時の天武天皇は、厩戸皇子を聖徳太子として数々の偉業を讃えるとともに、朝廷の信頼回復のための材料としてのではないのかという。
もしそれが真実なら、教科書からも聖徳太子の名は消えてしまうかもしれない。
最後に
聖徳太子がすべての偉業を一人で成し遂げたのではなくても、政治の中枢に厩戸皇子がいたことは確かである。「蘇我馬子とともに政治を変えていった」というのが推測としては妥当である。
いずれにせよ、突出した才能を持つ政治家が飛鳥の都にいたことに違いはない。
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