天武天皇(てんむてんのう)という名前を、どこで知っただろうか。
日本史の「壬申の乱」で、額田王とのロマンスを詠った「茜指す……」の和歌で知った方も多いかもしれない。
そんな彼は、「初めて」ばかりを行った天皇である。
大海人皇子
天武天皇は飛鳥時代の第40代天皇で、名を「大海人皇子(おおあまのおうじ)」という。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)、実兄は大化の改新の天智天皇、妻は持統天皇という皇族のサラブレッドである。
在位は673年~686年の13年間。壬申の乱で勝利し、天武天皇として即位した。
天武天皇としての実績
大和朝廷の中央集権は、天智と天武の兄弟によって確立されたと言われている。より天皇へ権力と権威を集めるよう推し進めたのが天武である。
以下に業績の一部を記す。
・古事記、日本書紀の編纂
天皇家は神の子孫であると初めて体現し、天皇家による国の支配を正当化する内容となっている。このふたつが、日本に現存する最古の史書だが、存命中には完成せず、持統天皇が引き継いだ。
・皇親政治
要職を皇族に就かせ豪族を遠ざけた政治で、権力を天皇個人へ集中させた。皇族の地位を高めるため、豪族・氏族を単位として氏姓制度を再編した「八色の姓」もこのシステムのひとつである。
・飛鳥浄御原令(あすかきよみはられい)を策定
日本最初の律令で、後の大宝律令へ影響を与えた。原本は存在していないが、この中で初めて「日本」という国号が使用されたと言われている。
・藤原京造営に着手
代変わりごとに宮を移さず永続的な都とするために、唐の都を参考に建設された。天皇の宮の周囲まで整備したのは藤原京が初めてである。事実、後に平城京へ遷都するまで3人の天皇が居住した。
・初めて天皇と名乗る
あくまで天武のために生まれた尊称のようである。日本書紀に名もない「天皇」表記を天武天皇とする記述がある。
他にも、「伊勢神宮を天照大御神を祀る場所として最高位」にした、「陰陽寮を設置」、「天文台を作る」、「富本銭の鋳造」などがある。
陰陽寮は、陰陽師の活躍で有名な機関である。富本銭は国が作った最初の貨幣とされ、和同開珎のモデルになったという。
天照大御神は、既存の地方神である太陽神と天皇家が祀っていた神を合体させ、天武が作ったとの説もある。
他には「薬師寺を建立」するなど神道だけでなく仏教の保護も抜かりなく、後の奈良時代の国家仏教へと繋がっていく。
壬申の乱
古代日本最大の戦である「壬申の乱」とは、天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げ後継者争いをした内乱である。
叔父と甥の戦いだが、根本の原因は天智と天武の不仲であるとされている。天智が、母親の身分が低く天皇になれない大友皇子に、皇位を譲りたいと考えるようになったことが最初だと言われている。
白村江の戦いによる国の疲弊や冷酷非道な天智の政治に反感を持つ皇族や群臣は多かった。当初正当な後継者であった天武が挙兵することは、誰もが望んだことだったのかもしれない。
継承問題に関しては当時、母親の身分は重要だった。天武の第一皇子である高市皇子は、母は力のある豪族出身だったが皇族ではないため、草壁皇子らが亡くなっても即位することなく生涯を終えている。天武は、たとえ母親であろうと王の名を称してしなければ拝礼してはいけないという「卑母拝礼の禁止令の詔」を679年に発している。
戦に勝利した天武は、天智の大津宮ではなく父母が居住した飛鳥の宮へと帰還した。
即位後、天武は天皇中心の身分制度により豪族たちを支配することに成功した。戦で勝ち取った皇位だが政治力で天皇の力を絶対的なものとしたのである。
また、不仲の要因として「天武の妻であった額田王を天智が奪った」というロマンス論も根強い。
額田王との子、十市皇女は大友皇子の正妃であったのも悩ましい悲劇である。
出生の謎
天武にはひとつ大きな謎がある。
日本書紀には天武の生年と没年齢の記述がないため、年齢がわからないのである。編纂を命じた本人に謎を作った理由とは何であろうか。
日本書紀では、天智が兄、天武が弟とあるが、後世の資料には「天武が年上」とする記述が存在している。一説として、二人は異父兄弟であり、天武の実の名は「漢皇子」ではないかという説がある。
漢皇子とは、母・皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ前の夫、高向王との子である。もし漢皇子だったならば、天智より4歳程年上ということになる。
高向王は用明天皇の孫だとされているが、用明の系図に高向王の名はなく、子とされている男子の中にいるのか、記述がないだけなのかはわかっていない。この男子の中には、かの有名な聖徳太子がいる。
天智天皇の行動にも謎がある。天智は娘を4人天武に嫁がせている。額田王を奪った罪滅ぼしともされている一方で「実弟との関係を濃くしなければならない理由があったのでは」とも読み取れる。その後、天智は天武の命を狙うまでになるのだが、その変化の理由は定かではない。
天武時代末期に、全焼した法隆寺を国費で再建したことも「父あるいは叔父が建立したものだから」は理由になるのだろうか。
誓いも虚しく
天武は、身内同士で争わず、皆平等で助け合おうという内容の誓いを子供たちにさせたと言われている。
「吉野の誓い」と呼ばれるものだが、事実上草壁皇子が一位であり、平等ではなかったようだ。天武崩御後、二位の大津皇子が謀反の疑いで自害させられているが、実子の草壁を天皇にしたかった持統天皇によるものとされている。
天武の望む「誓い」は、天智の娘である妻によっても破られていた。
最後に
占いをしたり、博打やなぞなぞといった庶民的な趣味を持っていたという天武天皇。古墳に残された骨のサイズから、身長175センチと推定され、高身長であったようだ。
彼が行った事業は大規模で長期的なものが多くそれを見届けることなく崩御してしまうが、先まで見据えた業績は近代まで続く基盤だと言えるだろう。
己を貫くような政治を行った彼は何者だったのか。新たな発見を注視していきたい人物である。
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