今から1500~1600年程前、朝鮮半島からの渡来人により、仏教は日本に持ち込まれた。
当時の朝鮮には中国から仏教が伝わってきており、渡来してきた人たちも仏教を信仰していたからだ。
当時の日本には、太古より八百万の神を祀る「神道」があった。
大王(おおきみ)をはじめ、力を持っていた豪族たちも、数多くおられる神様を祖先として祀っていた。
神社にご神体をお祀りするだけでなく、山や海などの自然もお祀りする自然崇拝であった。
そのような中、渡来人たちは仏様を祀っていた。
それは渡来人たちが住む地域で、徐々に広がっていった。
とはいえ、正式に国に伝わったものではなかったことから、庶民レベルで広がっていたのである。
このようにして仏教は日本に伝来してきたが、古墳時代末期になると、百済より正式に仏教が公伝された。
神様の子孫という立場で「神道」を固持する豪族と、「仏教」を容認する豪族との間で意見が対立することになり、天照大御神を祖先神とする天皇も、その扱いには困ったことだろう。
その後、「崇仏派」と「廃仏派」で激しい論争となり、丁未の乱(ていびのらん)が起こるのである。
今回は、この丁未の乱について掘り下げていきたい。
仏教公伝から崇仏廃仏論争へ
古墳時代末期、宣化天皇(せんかてんのう)が政権運営するヤマト王権では、軍事関連を大連(おおむらじ)の大伴氏、武器の管理や裁判などを同じく大連の物部氏が担当していた。※連(むらじ)とはヤマト王権に置かれた役職の1つで、大連は特に力があった。
そこに宣化天皇は外交や氏族管理を担当させるため、大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)を加える。
蘇我氏は朝鮮からの渡来人の子孫とする説が残っており、渡来人と関わりのある豪族であった。
宣下天皇の在位は4年間と短く、その後、宣化天皇の異母弟である欽明天皇(きんめいてんのう)が即位する。
欽明天皇の治世に置いても、大連の大伴氏、物部氏、蘇我氏の3豪族による政権運営は続くものの、朝鮮半島における任那(みまな)政策の失敗により大伴氏は失脚することになり、物部氏と蘇我氏の2大豪族による体制となっていった。
そのような中、百済の聖明王(せいめいおう)より仏教が朝廷に伝わる。
この頃、朝鮮半島を納めていた高句麗、新羅、百済の3国の対立が激化していた。
百済は、高句麗、新羅に押されていたこともあり、同盟国である日本に援軍を求めたのである。
聖明王は手土産として、大陸の先進文化である仏教の教えを国として伝えた。
仏教の教えが書かれた貴重な経典、仏像などを欽明天皇に贈ったのである。
それらと一緒に送られた書簡には、次のように書かれていたとされている。
「仏教はインドで生まれ、百済に伝わってくるまでに、大陸中の国々でも信仰されることになった先進文化の信仰であり、如何なる願いも叶えることができる最高の教えである」
これを聞いた欽明天皇はとても喜んだ一方で、異国の神であることから、神道を信仰している日本での取り扱いに困ることになる。
そのような背景の中、群臣に意見を求めたところ、意見が対立した。
大連の物部尾輿(もののべのおこし)は、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」を祖先神として神を祀る一族の立場から、「異国の神を祀れば国神が怒る」という立場で仏教の崇拝に反対した。
一方、蘇我稲目は渡来人との結びつきが強かったことと、外交を担当していたこともあり、「百済以外の朝鮮の国々や中国大陸も仏教崇拝しており、日本だけが取り入れないのは良くない」として崇拝する立場を取った。
そのため聖明王から送られた仏像は、蘇我稲目に預けられることになる。
蘇我稲目は自身の邸宅の一つを祓い清め、そこに仏像を安置して仏教の崇拝を行った。
欽明天皇は様子を見ることにしたものの、仏教崇拝が始められたタイミングで、国内で疫病が流行り始めてしまう。
この疫病により犠牲者が多く出たことから、廃仏派から仏教の排除が進言された。
欽明天皇はこれを容認するしかなく、許可を得た物部尾輿は、蘇我稲目が仏像を祀った建物を焼き払い、仏像を難波の水路に破棄してしまうのである。
しかしこの対応の直後、今度は天皇が住んでいた宮殿が、火元がわからない原因不明の火事に見舞われてしまう。
欽明天皇は「仏像を捨てた仏罰」と考え、霊木で仏像を作らせ、再度蘇我稲目に祀らせたのである。
崇仏廃仏論争は子どもの世代へ
仏教公伝から30年程経った頃、欽明天皇の崩御により子の敏達天皇(びだつてんのう)の治世となっていた。
豪族たちも子の世代へと移っており、物部氏では物部守屋(もののべのもりや)が大連として、蘇我氏では蘇我馬子(そがのうまこ)が大臣として任命されていた。
それぞれ親の考え方を継承しており、物部氏は「廃仏」の立場をとり、蘇我氏は「崇仏」の立場をとっている。
そして天皇が代替わりをしたことから、百済より改めて仏像が送られてきた。
敏達天皇も父の欽明天皇と同様に、蘇我氏に仏像を祀るように指示する。
指示を受けた蘇我馬子は寺を作り、安置するとともに、史上初となる「僧」を寺に配置したのである。
この時に配置した僧は女性であり、3人の僧を配置して蘇我馬子は法会を行おうとした。
そしてタイミングで、なんとまたしても疫病が流行り始めるのである。
物部守屋は「仏教などを信仰しようとするからまた神罰が下ったのだ」と主張した。
そして、父の物部尾輿同様に、寺を焼き払って仏像を大坂湾に沈め、3人の僧にはむち打ちの罰を与えたのである。
しかし、またこのタイミングで今度は「天然痘」が広がった。
物部守屋や敏達天皇も天然痘に罹患してしまい、先代の宮殿火災同様に「天皇に仏罰が下った」と噂されるようになるのである。
その後、敏達天皇は天然痘が原因で崩御した。
敏達天皇の崩御を受け、次は敏達天皇の異母弟である用明天皇(ようめいてんのう)が即位した。
用明天皇の母は、蘇我馬子の妹である堅塩姫(きたしひめ)であり、蘇我馬子とは叔父と甥の関係であった。
また、皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)も、蘇我馬子の妹である小姉君(おあねのきみ)と欽明天皇の娘であり、蘇我馬子の姪であった。
このことから用明天皇は蘇我氏と繋がりが深い天皇であり、崇仏思想を持っていたのである。
そして物部守屋は、蘇我氏との関係性が非常に強い用明天皇の即位に納得していなかった。
そこで、同じく用明天皇の即位に納得していなかった用明天皇の異母弟である、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と手を組むのである。
用明天皇は即位後、すぐに体調を崩して病となった。
そして平癒の祈願として仏教の公認を進めて仏教に帰依するも、即位から2年後の587年に崩御してしまい、皇位継承争いが起こるのである。
物部守屋は皇位継承において、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の擁立に動いた。
一方で蘇我馬子は、穴穂部皇子の同母弟である泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推薦した。
587年7月、物部守屋は穴穂部皇子の即位を狙い、クーデターを起こす素振りをみせる。
蘇我馬子はその動きに気付き、敏達天皇の皇后であり、用明天皇の妹であった炊屋姫(かしきやひめ : 後の推古天皇)に、「天皇不在のため、皇族代表として穴穂部皇子を誅殺する詔」を出してもらうことに成功する。
この誅殺の詔により、蘇我馬子は物部守屋がクーデターを起こす前に、穴穂部皇子を殺害したのである。
物部氏宗家を滅亡させた「丁未の乱」
蘇我馬子は、クーデターを起こそうとした物部守屋を、穴穂部皇子の次に滅ぼしにかかる。
これに対して物部守屋は、河内国にある館で蘇我馬子の軍を迎え撃った。
蘇我軍は、次期天皇として推薦している泊瀬部皇子、用明天皇第二皇子の厩戸皇子(うまやどのみこ)、そして敏達天皇と炊屋姫の子である竹田皇子が従軍し、崇仏派の豪族たちで構成されていた。
皇族も多く従軍した軍であったものの、物部氏も軍を管理する氏族であったことから精鋭が多く、蘇我軍は当初苦戦を強いられた。
ただ、館で迎え撃ったことから、時間と共に徐々に追い詰められていった。
そして大木の上で応戦していた物部守屋に、迹見赤檮(とみのいちい)が放った矢が当たり、ついに物部守屋は討たれてしまったのである。
こうして総大将を失った物部軍は総崩れとなり、戦いは幕を閉じた。
蘇我馬子は、仏教の崇拝をかけて親子二代で対立してきた政敵の物部氏に、完全勝利したのである。
この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と呼び、物部氏が完全に排除されたことにより、排仏派は発言力を失った。
その後、第33代推古天皇の治世になると、聖徳太子とともに仏教浸透を本格化させていくのである。
参考文献
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
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