飛鳥寺とは
飛鳥は、古代日本で朝廷が都と定めた地である。
丁未の乱(ていびのらん)で物部氏に勝利し、仏教容認派の頂点に立った蘇我馬子(そがのうまこ)は、596年に日本初の本格的な仏教寺院をこの地に創建した。
それが現在の飛鳥寺である。
飛鳥寺は創建においては日本最古のお寺であり、その歴史から、本元興寺(ほんがんごうじ)、安居院(あんごいん)とも呼ばれている。
創建当時は、現在の約20倍の広大な敷地を持ち、塔を中心に東、西、北の三方に金堂を配置し、外側に回廊があったと見られている。
推古天皇の住居も飛鳥寺を中心に置かれていたとされ、当時の飛鳥文化の原点と言える寺院である。
本記事では、令和の時代に残る最古の古刹、飛鳥寺の創建の歴史について解説する。
「崇仏派」と「排仏派」の対立
日本書紀によれば、仏教が日本に伝来したのは552年とされている。
しかし、本格的な仏教寺院である飛鳥寺が創建されるまでには約40年の歳月を要した。
その間、朝廷内では仏教を受け入れる「崇仏派」と、排斥しようとする「排仏派」の豪族が激しく対立し、仏教の扱いについて意見が真っ向から分かれ、対立を深めていた。
仏教が公式に伝えられる以前、日本人は主に神道を信仰していた。
仏教は渡来人や蘇我氏など、一部の限られた豪族の間で非公式に信仰されていた。
しかし、八百万の神を祀る日本古来の信仰と異なる仏教を受け入れることは、神罰を招くと考える者も多かった。そのため、仏教の排除を求める動きが強まったのである。
仏教が公伝されたのは第29代欽明天皇の時代であり、政権は大連の物部氏と大伴氏、そして大臣の蘇我氏によって運営されていた。
しかし、百済政策の失敗により大伴氏が失脚し、物部氏と蘇我氏が政権を担うこととなった。
そのような状況の中で仏教が公伝され、仏教擁護の立場をとる蘇我稲目(そがのいなめ)と、排斥の立場をとった物部尾輿(もののべのおこし)が対立した。
仏教公伝から30年程経った第30代敏達天皇の時代には疫病が流行し、物部氏はこれを「仏教信仰による神罰だ」と主張。天皇の許可を得て仏像を処分したが、その後、仏罰かの如く敏達天皇が疫病にかかり崩御してしまう。
これを機に、再び蘇我氏が仏像を祀ることになった。
敏達天皇の後を継いだ用明天皇は蘇我氏を外戚に持つ崇仏派で、身体が弱く健康面で問題を抱えていたこともあり、仏教に救いを求め帰依することを宣言した初の天皇でもあった。
豪族たちも子の世代へと移っており、物部氏では物部守屋(もののべのもりや)が大連として、蘇我氏では蘇我馬子(そがのうまこ)が大臣として任命されていた。
587年、蘇我馬子は用明天皇に寺院建立を発願した。
しかし同年4月、寺院建立が始まる前に用明天皇は崩御してしまった。
こうして元々仏教崇廃で対立していた蘇我氏と物部氏が、皇位継承でさらに対立を深め、権力闘争が勃発したのである。
飛鳥寺の元となる「法興寺」の創建
物部尾輿の子である物部守屋(もののべ のもりや)は、皇位継承を狙う穴穂部皇子と組み、軍事行動を計画。
これに対し皇族と蘇我馬子は、穴穂部皇子を捕らえて処刑し、物部守屋の討伐にかかった。(丁未の乱)
この戦いにおいて、用明天皇の皇子であった厩戸皇子(うまやどのおうじ : 後の聖徳太子)は、勝利祈願として四天王像を自ら彫り、勝利した暁には四天王を祀る四天王寺を建立し、生涯をかけて生きとし生けるものの救済に務めると誓った。
同様に、馬子も勝利の暁には発願していた寺院(法興寺)を建立し、仏教の教えを広めると誓う。
そして物部守屋に勝利した後、蘇我馬子はその誓いを実行に移し、法興寺の建立を開始した。
その後、厩戸皇子も四天王寺のほかに法隆寺を創建し、仏教文化の普及に尽力する流れとなる。
つまり、建立においては日本最古のお寺は法興寺(飛鳥寺)ということになる。(法隆寺は現存する木造建築物として最古)
このようにして、飛鳥文化と呼ばれる日本最初の仏教文化が形成されていったのである。
法興寺から飛鳥寺へ!蘇我氏の滅亡から官寺への歴史
物部氏に勝利した翌年の588年、百済から僧と寺の建立に必要な技師、塔に納める仏舎利が届き、法興寺の造営がはじまる。
5年後の593年には塔の心柱部分が完成し、さらに3年後の596年には外観部も完成し、金堂など他の伽藍も順次作られていった。
創建当時の法興寺は、東西約200メートル、南北約300メートルの広大な敷地を持つ壮大な寺院であった。
物部氏を排除したばかりの蘇我氏は、朝廷での権力を拡大しつつ、仏教の普及を推し進めていた。蘇我氏の氏寺である法興寺を持つことで、皇族や豪族、民衆に対する権力を誇示し、畏服させる必要があったのである。
法興寺の建設に関わった技術者たちは、その後もさまざまな寺院建築に関与し、その弟子たちも技術を習得したことで、法興寺を原点として多くの寺院が作られていった。
法興寺が完成すると、仏教は当時の支配者層である豪族に急速に広まり、浸透していった。法興寺はその中心に位置し、聖徳太子の師である高句麗の高僧恵慈や、完成時に来日した百済の高僧恵聡などが住み込み、仏教の教学の場となった。
しかし、蘇我馬子の子や孫である蘇我蝦夷、蘇我入鹿の時代になると、天皇を差し置き、なり替わろうとする言動が目立つようになった。
これに危機感を抱いた中臣鎌足と中大兄皇子は、乙巳の変を起こし、蘇我氏宗家を滅亡させた。
蘇我氏の滅亡後、法興寺は国が監督する官寺として管理されるようになった。管理する蘇我氏が滅亡しても重要な位置付けの寺院であったからである。
斉明天皇の時代になると、僧の道昭が玄奘三蔵より学んだ唯識説を日本に持ち帰り、法興寺から法相宗と呼ばれる唯識説の教えを発信した。これにより、法興寺は日本仏教のルーツとして重要な寺院となった。
710年に都が平城京に遷都されると、その8年後に法興寺も平城京に移設された。この際、法興寺の伽藍の一部を解体し、その材料を使って平城京で再建し、元興寺となった。
しかし、法興寺の全てを解体することなく一部はそのまま残され、本元興寺として存続し、現在の飛鳥寺へと続いている。
放置からの復興には600年
本元興寺として飛鳥に残された寺院は、887年の落雷による火災で大部分が焼失した。
その後、1196年にも再び落雷による火災が発生し、残っていた伽藍の本堂や塔も焼失、安置されていた釈迦如来像は雨ざらしの状態となり、寺院は急速に荒廃してしまった。
江戸時代まで荒廃が続いた本元興寺であったが、1632年に釈迦如来像を安置するためのお堂が建てられた。そして、1826年には現在の伽藍となる建物が再建され、復興を果たした。
600年以上も放置されていた伽藍であったが、現在では飛鳥大仏を安置する飛鳥寺として、多くの参拝者が訪れる寺院となっている。
現存する伽藍は約200年の歴史を持つが、創建からの歴史を遡れば聖徳太子の時代にまで及ぶ古刹である。
聖徳太子や蘇我馬子も祈ったとされる飛鳥大仏を、悠久の歴史に思いを馳せながら、ぜひ拝観してみてはいかがだろうか。
参考文献
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
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