奈良県高市郡明日香村に位置する飛鳥寺は、日本最古の古刹(こさつ)として名高い。(※古刹とは古い寺、由緒ある寺のこと)
その飛鳥寺には、日本最古の釈迦如来像が本堂に安置されている。
この釈迦如来像は「飛鳥大仏」とも呼ばれ、東大寺の大仏には及ばないものの、「大仏」と称されるにふさわしい大きさを持つ仏像である。
飛鳥寺の前身である法興寺創建時に本尊として造立された釈迦如来像は、飛鳥時代から令和の時代に至るまで、その姿を変えずに安置されてきたわけではない。
蘇我氏の氏寺として創建された法興寺は、蘇我氏の滅亡や都の遷都とともに衰退し、釈迦如来像も放置されることとなった。
江戸時代には寺の復興が行われ、飛鳥寺として再興された。その際、放置されていた釈迦如来像も修復され、現在の姿に至っている。
本記事では、飛鳥寺に安置されている飛鳥大仏とその歴史について解説する。
飛鳥大仏とは
飛鳥大仏は、『日本書紀』によれば、606年(推古天皇14年)に造立されたとされる。
仏像を鋳造したのは鞍作止利(くらつくりのとり)という仏師であり、彼は朝鮮からの渡来系技術者である。
当初の釈迦如来像は、高さ約3m、幅4.8mで「丈六仏」とも呼ばれていた。
材料としては銅15トン、金30kgが使用されたという。
仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)とは?
鞍作止利(くらつくりのとり)は、飛鳥時代を代表する仏師で、その生没年は不明である。
605年、推古天皇は、摂政の厩戸皇子(聖徳太子)、皇族や豪族といった臣下らとともに仏に対する誓願を行い、仏像と刺繍で作った繍仏を各1体制作するよう命じた。その際、法興寺の造仏担当に任命されたのが鞍作止利である。
翌606年、釈迦如来像は完成するが、なんと、入り口が小さくて建物内に入らないというトラブルが発生する。
この時、鞍作止利の工夫により、扉を壊さずに仏像を安置することができ、その功績により冠位十二階の上から三位に当たる大仁(だいにん)の冠位を与えられる。
鞍作止利の父である鞍部多須奈(くらべのたすな)もまた仏教に深く帰依し、亡き用明天皇のために坂田寺を建立し、出家して德齊法師(とくさいほうし)と名乗ったとされている。
飛鳥大仏の特徴
鞍作止利によって作られた飛鳥大仏は、銅と金を使用して鋳造され、石造りの台座に座った形の坐像である。
円筒形の面長な顔立ち、アーモンド形の大きな目、そして「アルカイックスマイル」と呼ばれる古式の微笑を浮かべている。
このアルカイックスマイルは、紀元前7~6世紀の古代ギリシャの彫刻に見られた表情技法であり、ユーラシア大陸を渡り仏像にも影響を与えたとみられ、飛鳥時代の日本の仏像にも取り入れられたのである。
法興寺の衰退と放置の歴史
乙巳の変(いっしのへん)により蘇我入鹿・蝦夷親子が誅殺され蘇我氏が滅亡すると、法興寺は蘇我氏の氏寺から、国が管理する官寺となった。
蘇我氏の氏寺といえども、日本における仏教発信の原点として仏教活動の中心地的な役割を持っていたからである。
飛鳥時代末期に元明天皇によって都が平城京に移されると、法興寺も平城京へ移され、一部の伽藍は解体されて元興寺(がんこうじ)として再建された。そして、飛鳥の地に残された伽藍は本元興寺(ほんがんこうじ)として存続することとなった。
その後、都の機能が平城京から平安京に移ると、飛鳥の地に残った本元興寺は衰退を始める。
平安時代以降、寺院は落雷や火災に見舞われ、伽藍は焼失してしまった。鎌倉時代には再度の落雷により飛鳥大仏が安置されていた建物も延焼し、寺は荒れ果て、飛鳥大仏は雨ざらしの状態になってしまったのである。
江戸時代に入ると、1632年に釈迦如来像のあった中金堂跡に仮のお堂が建てられた。
さらに50年後の1681年には、僧の秀意が草ぶきで作った草庵と呼ばれる小屋を作り、そこで釈迦如来坐像の修復作業を行ったとされている。
秀意が修復作業を始めた際、その場には大仏を安置していた基礎のほか、創建当時の釈迦如来像の頭部と右手指の一部のみが残っていたという。
さらに約100年後の江戸時代中期、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)がその地を訪れた際は、「かりそめなる堂に、本尊釈迦如来像が安置されるのみだった」とされ、まだ寺として復興はできていなかった。
江戸時代末期以降、ようやく寺は再建される。
現在の本堂は、その当時再建されたもので、飛鳥大仏が安置されている。
日本最古の仏像なのに国宝になれない理由
飛鳥大仏は、歴史的には日本最古の仏像であるが、国宝指定を受けていない。
その理由は、造立時からのオリジナル残存率の低さである。
そのため、国宝ではなく国の重要文化財という形に収まっている。
飛鳥大仏は造立以来、平安時代や鎌倉時代の本堂への落雷による火災で大きく破損し、その後、江戸時代初頭までの約600年間、雨ざらしの状態に置かれていた。そのため、オリジナル部分が大きく失われてしまった。
造立された時期が判明している仏像の中では最も古いものであるが、大部分が江戸時代以降に復元されたものであるため、国宝としての指定は受けられないのである。
とはいえ、頭部は飛鳥時代から令和の現代まで、国を見守ってきた仏像である。
国宝指定は受けていなくとも、今後も大切にすべき存在であると言えるだろう。
参考文献
・ビジュアル百科写真と図解でわかる!天皇〈125代〉の歴史 西東社
・いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編 東洋経済新報社
文 / 草の実堂編集部
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歴史的観点から見ても仏教の原点だ。仏頭は創建当時の物であるならば、興福寺にある山田寺の仏頭は国宝になっているではないか!最古の仏頭ならば国宝は当然であろう。