安土桃山時代

豊臣秀吉と徳川家康はいかにして神になったのか? 〜豊国大明神と東照大権現

偉人がその死後に神として祀られる例は、日本各地の神社に見ることができる。

かつて名を馳せた歴史上の人物が、今なお神として崇敬されている光景は、決して珍しくない。

なかでも、死後まもなく神格化された代表的な存在が、天下人・豊臣秀吉徳川家康である。

彼らはどのような経緯で神となったのだろうか。

秀吉誕生にまつわる霊験譚(れいげんたん)

画像:絵本太閤記 public domain

江戸時代後期に人気を博した『絵本太閤記』は、秀吉の出生の時点から霊験に満ちたものとして描いている。

物語は、乱世に心を痛めた比叡山延暦寺の僧・昌盛(しょうせい)が、天下泰平を祈願して竹生島に籠るところから始まる。

昌盛は百日間にわたって祈りを捧げ、その満願の際、神女が出現し

「汝の祈祷は神に通じた。汝の家に奇子(きし、不思議な子)が生まれ、その子が天下を太平に導くだろう。還俗し、子を持て」

と神託を受けたという。

昌盛は延暦寺を離れて妻帯し、尾張国愛知郡中村へと移住した。その子孫として生まれたのが、後の豊臣秀吉であるとされている。

『絵本太閤記』が刊行されたのは、秀吉の死後200年近く経った寛政九年(1797)からのことである。
全84巻の大作は五年をかけて完成し、庶民の間で広く読まれた。

この頃にはすでに秀吉は歴史上の英雄を超えて、神格化された伝説的人物として受け止められていたのである。

豊国大明神になった豊臣秀吉

画像:豊国廟(豊臣秀吉の霊廟) wiki c 名古屋太郎

慶長三年(1598)8月18日、秀吉は京都伏見城で死去した。享年62であった。

秀吉は生前、自らが死後に神として祀られることを望み、「新八幡」という神号を希望していた。
しかし朝廷はこれを認めず、慶長四年(1599)4月17日、「豊国大明神」の神号を宣下した。

この「豊国大明神」という称号は、『日本書紀』などに見られる日本の古称「豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)」に由来するものであり、天下統一を果たした秀吉にふさわしい神号であったといえる。

神号の決定を受け、翌日の4月18日には京都東山・阿弥陀ヶ峰の麓に造営された社殿で正遷宮が執り行われ、秀吉を祀る豊国社が正式に設立された。

豊国社はやがて全国の大名の領内にも勧請(かんじょう)され、各地に分社が建てられていった。その際には秀吉の像や肖像画も数多く作成され、今も各地に残されている。

また、秀吉の後継である秀頼が自ら筆をとって書いた「豊国大明神」の額は多数現存しており、これらも豊国社の各地の社殿に掲げられ、信仰の対象となった。

豊国社の破却

画像:明治時代に再建された京都の豊国神社 wiki c 663highland

こうして神として祀られるようになった豊臣秀吉であったが、その神格もやがて揺らぐことになる。

慶長二十年(1615)5月、大坂夏の陣によって豊臣家が滅亡すると、徳川家康は秀吉の神としての地位にも手を加えようとした。
家康は「豊国大明神」の神号を剥奪し、京都東山にある豊国社の破却を命じたのである。

しかし、秀吉の正室・高台院(北政所)がこれに強く嘆願したため、全面的な破却は免れた。
代わりに「崩れ次第」とする措置がとられ、一切の修繕が禁じられた。つまり、社殿は自然に朽ち果てるに任せるという事実上の廃絶であった。

その後、豊国社は長らく荒廃したまま放置されたが、慶応四年(1868)、明治天皇の勅命により再興が布告される。
明治政府は、神仏分離政策の一環として歴史的人物の神格化を奨励していた背景もあり、秀吉の神としての地位がようやく復権したのである。

明治三十一年(1898)には、京都東山の地で秀吉の遺骸とされるものが発見されたが、再埋葬されている。

「家康の誕生」を予言した夢

画像:鳳来寺本堂 wiki c Bariston

『東照宮縁起絵巻』は、徳川家康が神として祀られるまでの経緯を描いた絵巻物である。

そこには、家康の出生にまつわる霊験譚も収められている。

三河・岡崎城主であった松平広忠とその正室・於大の方(おだいのかた)は、長らく嫡男の誕生を願っていた。夫妻は三河国の鳳来寺(ほうらいじ)を参詣し、薬師如来に子授けを祈願したという。

その後、於大の方が不思議な夢を見る。

画像 : 於大の方 public domain

夢の内容を陰陽師に占わせたところ、「十二神将の加護によって、十二か月後に男子が誕生するであろう」と告げられた。

十二神将とは、薬師如来を守護し、その教えを信じる者を保護する十二尊の武神である。鳳来寺の本尊が薬師如来であることから、この夢は家康誕生を導いた霊験とみなされた。

この絵巻は、家康の孫にあたる三代将軍・徳川家光の命により製作されたもので、寛永十七年(1640)に完成し、家康の二十五回忌に際して日光東照宮に奉納された。

東照大権現となった徳川家康

画像:日光東照宮 photoAC

徳川家康は元和二年(1616)4月17日、駿府城内で没した。享年75。

死に際して家康は「八州の鎮守とならん」と遺言し、自らの神格化を望んだ。
この「八州」は、関東地方を指す「関八州」とも、日本全体を意味する「大八洲」とも解釈されるが、明確な意図は不明である。

神号を巡っては、当初「大明神」の称号が送られる予定だった。

しかし、天台宗の南光坊天海が「大権現」を主張し、吉田神道の金地院崇伝は従来の神号である「大明神」を譲らなかった。
両者の対立の末、「大明神」を与えられた豊臣家が滅んだことを不吉とし、最終的には「大権現」と定まった。

朝廷からは「東照大権現」「日本大権現」「霊威大権現」「東光大権現」の四候補が上がり、元和三年(1617)2月21日、「東照大権現」の号が正式に選ばれた。

家康の遺言により、遺骸はまず駿府郊外の久能山に葬られた。翌年、日光の東照社に改葬され、さらに正保二年(1645)11月11日、「宮」の号が宣下され「東照宮」となった。

東照宮は日光をはじめ、江戸城内や全国の諸大名の領内など各地に勧請され、多数の分社が建てられた。家康の肖像画も数多く描かれ、これは秀吉の例とよく似ている。

なお、日光東照宮は明治維新の戊辰戦争の際、旧幕府軍が集結したにもかかわらず、戦火を免れて現在に至っている。

おわりに

画像 : 秀吉と家康 public domain

現在、豊臣秀吉は京都の豊国神社に、徳川家康は日光の東照宮に祀られている。

どちらも、自ら神となることを望み、遺言として残した。その遺志は家臣たちによって忠実に実行された。
神となるにふさわしい存在と、当時の人々に認められていた証拠であろう。

秀吉や家康に限らず、日本各地には戦国武将を祀る神社が今も残っている。しかし、彼らのように死後ただちに神格化され、全国に広く勧請され続けた例は、日本史においてもとりわけ象徴的な事例と言えるだろう。

参考文献:絵本太閤記、東照宮縁起絵巻、戦国の世の祈り(大阪城天守閣)
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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