安土桃山時代

織田信長と足利義昭はなぜ決裂したのか「見捨てたのは信長ではなく義昭だった?」

1568(永禄11)年、織田信長に奉じられて上洛した足利義昭は、念願の征夷大将軍に就任した。

ここに、信長が義昭を補佐するという形の連合政権が誕生する。

これまで『お飾りとして擁立された傀儡(あやつり人形)将軍』とされることが多かった足利義昭だが、近年の研究では「将軍として信長と対等、もしくはそれ以上に優位に立つ場面も多かったのではないか」と評価されることも多くなってきた。

本記事では、政権発足後から京都追放に至るまでの、信長と義昭の関係について解説する。

御父信長殿

画像:足利義昭坐像(等持院霊光殿安置) public domain

上洛からわずか5年で決裂し、後に不倶戴天の敵同士となった信長と義昭であるが、当初は極めて良好な関係であった。

そもそも、義昭の将軍就任自体が、信長の存在なくしてはあり得なかったといっていい。

兄である13代将軍・義輝の死後、上洛のために諸大名に対して号令をかけた義昭であったが、その呼びかけに応じ、実際に幕府再興の兵をあげたのは信長しかいなかったからである。

将軍就任後、義昭が信長に対して発給した御内書(書状の形をとった公文書)の宛名には、『御父織田信長殿』と書かれていた。
また、1569(永禄12)年に将軍御所を作り上げた信長が岐阜に帰還した際、義昭は涙を流しながら見送ったという記録も残っている。

このように義昭と信長の仲は、この頃は極めて良好であった。

信長に対し義昭は名声や人脈を提供し、義昭に対し信長は軍事力や経済力を提供した。両者は相互補完的な関係にあったのである。

最初の衝突

画像:北畠具教像(伊勢吉田文庫蔵) public domain

1569(永禄12)年10月、信長は伊勢の北畠氏の居城である大河内城を開城させた後、上洛した。

しかし、その直後に事件が起きた。

戦の結果を義昭に報告するための上洛であったが、信長は報告を済ませたあと、突如予定を切り上げて岐阜へ帰国してしまったのである。

奈良興福寺の僧が書き継いだ記録である『多聞院日記』は、この事件について、信長と義昭の意見が対立し、「上意(将軍の意向)と競り合いて下りおわんぬ」と、最終的に義昭の意向に背く形で岐阜へ退いたと綴っている。

具体的に何が対立したのか詳細は不明だが、時期的に見て大河内城の講和条件をめぐる対立だった可能性が高い。

実は大河内城の戦いは、実質的には信長単独の軍事的勝利とは言いがたい。
信長は大軍を率いて大河内城を取り囲んだが、北畠方の抵抗を崩せず膠着状態に陥っていた。

結局は義昭に調停を依頼して、強引に大河内城を開城させたようなのである。

この一件において、窮地に陥っていた信長を救ったのは義昭だったと考えられる。
以降、両者の関係は緊張をはらみ始め、協力関係に微妙なずれが生じるきっかけとなった。

義昭を制御できない信長

画像:足利義昭御内書(大阪城天守閣蔵)public domain

永禄13(1570)年1月、信長は義昭に対して『五ヶ条の条書』を提出した。

主な内容は以下のとおりである。

・諸国の大名に御内書を出す場合になにか事情があるときは、信長に報告して、信長の書状も添えて出すこと。

・これまでに幕府が出した下知は一旦破棄し、改めて義昭が御思案なさった上でその内容を定めること。

・将軍家が恩賞・褒美とする領地が不足した場合には、信長の領地の中から、上意次第で提供する。

・天下の平定はこの信長に任せられたのだから、誰であろうと上意を得ることはできず、信長が道理に従って成敗を加える。

・天下が静謐になったからには、天皇や朝廷に関する出仕と支援を、義昭はすべてご油断なく勤めなければならない。

この文書は従来「信長が義昭の権力を奪い取ろうとしたもの」とされることが多かった。

だが近年では、この文書は幕府再興のために信長と義昭の役割分担を整理した性格が強いとされ、信長は義昭に対し「勝手な行動を控えてほしい」と釘を刺したにすぎず、命令というより要望に近い文書と考えられている。

実際、義昭は信長の承認を得ずに諸大名へ御内書を発給し、さらに毛利・上杉らと独自に交渉を進めるなど、将軍として主体的に権力を行使していた。

このような文書で本人に意見しているところをみると、義昭は信長に傀儡化されているどころか、むしろ自分の好きなように政治を進めようとしていたのではないだろうか。

志賀の陣

画像:琵琶湖から見た比叡山 wiki c Rock.jazz.cafe

元亀元年(1570年)4月、同盟国であったはずの浅井長政が、越前攻めに向かっていた信長の背後を襲った。

同年6月、信長は浅井・朝倉連合軍を姉川の戦いで破り、一時は勢いを取り戻したかに見えた。
しかし9月になると、本願寺顕如が突如として織田方に敵対し、情勢は再び不安定となる。
このとき信長は摂津で三好三人衆と対陣中であったが、本願寺との衝突を避けるため、義昭や朝廷を通じて和睦交渉を進めた。
ところが交渉の最中、浅井・朝倉両軍が京都を急襲したとの急報が入り、信長はやむなく軍を引き返し京都へ撤退した。

信長の本隊が京都に向かっていると知った浅井・朝倉両軍は近江の比叡山の峰々に陣を布いた。
比叡山には延暦寺があり、その動向は戦局を大きく左右する重要な要素であった。

不利を悟った信長は延暦寺に対して「味方してくれるなら織田領の荘園を返還する。それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と朱印状をしたためて通告したが、反応はなかった。

にらみ合いは12月まで続き、信長は焦りだした。
こうしている間にも、信長の領地である伊勢長島では本願寺の門徒が蜂起し、織田方の城を攻め落としている。

八方ふさがりになった信長は、義昭に頭を下げた。
朝倉義景と縁戚関係にあった義昭は、朝廷を介して織田・朝倉両軍の停戦交渉を主導した。結果として、朝倉氏は信長との和睦に応じ、これに続く形で浅井氏・延暦寺・本願寺も戦線から手を引いた。

こうして信長にとって地獄のようであった元亀元年が終わった。

しかし、この危機を収束させた原動力は信長の軍事力ではなく、義昭の人脈と将軍としての権威であった。信長はこのとき、義昭の調停力と影響力に依存せざるを得なかったのである。

決裂

画像:槙島城跡近辺の公園内にある槙島城記念碑 wiki c Muscla3pin

元亀3(1572)年10月、武田信玄が徳川家康の領内に侵攻した。

信長はただちに武田に宣戦を布告し、織田・徳川連合軍を編成して迎え撃つが、信玄は朝倉義景ら反信長勢力と連携し、同年12月の三方ヶ原の戦いで連合軍を撃破した。

再び窮地に立たされた信長であったが、同時に義昭も決断を迫られることになった。

信長が東方で信玄と対峙すれば、西国の守りは手薄になる。もし浅井・朝倉・本願寺などの反信長勢力が京都に進軍すれば、義昭の将軍権威も危機にさらされる状況だった。

元亀4年(1573年)2月、義昭はついに反信長の兵を挙げた。

だが、これを知った信長はただちに義昭を攻めることはなかった。それどころか、使者を派遣してすぐに和睦の交渉に入った。
信玄によって窮地に陥っているさなかに、将軍にまで見放されたとなれば、部下や同盟者に離反される危険性があったからである。

だが、信長の申し出を一蹴した義昭は同年3月、「信長は将軍の敵である」と天下に宣言した。

両者の決裂は決定的となったが、軍勢を率いて上洛した信長は、なお義昭との直接対決を避け、京都市街の焼き討ちという示威行動にとどめた。

義昭は、反信長勢力をあてにして抵抗を続けたが、援軍が来ることはなかった。

画像 : 武田信玄の最期を描いた月岡芳年の作。詞書では虫の音を聴かんとす、とある。public domain

武田軍は信玄の病により進軍を停止し、朝倉義景も越前防衛を理由に出兵を見送っていたのである。

同年4月、進退窮まった義昭は信長に降伏した。

頭を下げてきた義昭に対して、信長は意外に寛大であった。
義昭の身の安全を保証し、引き続き京都で将軍職を務めることを認め、一度手にした人質も返還してしまったほどである。

その頃、信長は『十七条の異見書』を発して、義昭の政治姿勢を厳しく非難していた。

これは、義昭を非難して自分の政治的正当性を主張する文書であったが、その本文でも信長は「自分は義昭の臣下として道理を説いてきた」ことを強調している。

義昭を追い詰めることで「信長が謀反を起こした」と思われることを躊躇していたのであろう。

だが、こじれにこじれた両者の仲が元に戻ることはなかった。

同年7月に再び挙兵した義昭は、京都郊外の槙島城で信長に敗れ、京都を退去した。

事実上の室町幕府滅亡の瞬間であった。

信長を見限った?

画像:足利義昭像『古画類聚』所収 public domain

従来、足利義昭は「信長に擁立された傀儡将軍」とされ、やがて信長と対立して見捨てられたというイメージで語られてきた。

だが、両者の出会いから決裂までの流れをたどると、むしろ信長を見限ったのは義昭のほうではないかと思えてくる。

信長は上洛後、強大な軍事力を背景に義昭を支える立場であったはずだが、実際には戦局で苦戦を続けた。
大軍を発しても決定的な勝利を得られず、戦況が膠着すると義昭や朝廷の仲介を頼りに和睦を模索する場面が目立つ。
姉川合戦後の志賀の陣や、石山本願寺との対立、さらに長島一向一揆など、信長はたびたび劣勢に立たされた。

義昭の目に映る信長は「頼りになる天下人」ではなく、むしろ不安定な同盟者に映ったのではないだろうか。

また、信長が政治姿勢に口やかましく意見を述べることにも、義昭は閉口したであろう。
信長が当てにならない以上、毛利や上杉や武田といった他の大名との連携を探ろうとするのは、生き残りを図る上で当然である。

義昭にとって、将軍権威を維持するために多方面との連携を模索するのは当然の行動であり、信長の統制に従う理由はなかった。

一方で、信長のほうにも事情はあった。

義昭が自分の知らないところで他の大名と結びつき、織田家と敵対する勢力に肩入れされたらどうなるか。
義昭の勝手な行動は、直接的な脅威となり自分の首が危うくなるのである。

結局のところ、信長は反信長勢力との泥沼の戦いを続け、長引くにつれて義昭の心は信長から離れていく。

ふたりの決裂は必然であったのだろう。

参考資料 :
『足利義輝・義昭』 山田康弘著 ミネルヴァ書房
『天下人と二人の将軍』 黒嶋敏著 平凡社
『信長と将軍義昭』 谷口克広著 中公新書
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

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