戦国時代

よくも夫を!戦国時代、兄を殺そうとした伊也姫の仇討ちエピソードを紹介

自由恋愛による結婚が市民権を得るようになったのは、日本の歴史から見ればつい最近、ここ数十年のことで、それまでは一族同士の媒(なかだち。橋渡し)として行われる政略結婚が当たり前でした。

しかし「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」とはよく言ったもので、いざご縁に巡り合って見れば、かけがえのない伴侶となることも少なくありません。

今回は戦国時代のそんな二人、丹後国(現:京都府北部)の戦国大名・一色義定(いっしき よしさだ。五郎)とその正室・伊也(いや)姫のエピソードを紹介したいと思います。

公私共に充実していた新婚生活

伊也姫は織田信長(おだ のぶなが)の家臣・長岡藤孝(ながおか ふじたか。細川幽斎)の娘として生まれました。

生年は不明ながら、すぐ上の次兄・長岡興元(おきもと)が永禄9年(1566年)生まれで、一色義定に嫁いだのが天正7年(1579年)ですから、永禄10~12年(1567~1569年)ごろ生まれ、11~13歳で結婚したものと考えられます。

義定に嫁いだ伊也姫(イメージ)。

ところで、伊也姫が嫁いだ一色家と実家の長岡家は、天正6年(1578年)から2年越しの戦さを繰り広げており、義定の父・一色義道(よしみち)をようやく自害に追い詰めたものの、家督を継いだ義定はなおも徹底抗戦。

「おのれ、左京(義定)め……」

攻めあぐねた藤孝は、信長の意向を受けて和睦を決定。上役である明智光秀(あけち みつひで)の助言により伊也姫を義定の嫁(実質的には人質)に出したのでした。

「不束者ではございますが……」

「うむ。よろしく頼む」

かくして愛情もへったくれもなく、形ばかりで始まった夫婦生活ですが、古来「時が二人を夫婦(めおと)にする」とはよく言ったもので、次第に打ち解け合っていきました。

軍記物語『一色軍記(いっしきぐんき)』によると、伊也姫は「菊の方(きくのかた)」と呼ばれたそうで、彼女が平素から菊の花を好んでいたのか、それとも菊にまつわるエピソードでもあったのか、興味は尽きないところです。

「菊よ……」

「五郎様……」

さて、織田家と和睦してからというもの、義定は丹後国の北半分(南半分は藤孝ら)を治め、天正9年(1581年)には京都の馬揃え(観閲式)に参加。一色家は由緒正しい名門なので、公家衆に列したと言います。

馬揃えに参加する義定(イメージ)。

また同年から翌天正10年(1582年)の甲州(武田氏)征伐にも参陣、義兄の長岡忠興(ただおき。藤孝の嫡男)と轡を並べ、武功を競ったそうです。

新婚早々忙しくも公私共に充実していた義定が、亡父の怨恨を乗り越えて新たな人生を歩んで行こうとしていた矢先、本能寺の変は起こったのでした。

義定の最期・一色氏の滅亡

時は天正10年(1582年)6月2日、光秀が何を血迷ったか京都・本能寺で信長を謀殺。天下に号令をかけるべく諸将に賛同を求め、その報せが一色・長岡の両家にも届きました。

「して……舅(藤孝)殿は、何と?」

「明智様にはお味方致しかねる、とのご内意にございます」

藤孝と嫡男・忠興は剃髪して信長への弔意を示すことで、信長を討った光秀への加勢を遠回しに断ります。

「そうか……」

義定は光秀へ加担するつもりでしたが、丹後から京の都へ向かう道のりは長岡父子が阻む形となっていたので動けず、また長岡父子も義定に背後を衝かれかねないため、互いに睨み合う形で膠着。

やがて6月13日、世に言う「山崎(やまざき)の合戦」で光秀はかつての同僚であった羽柴秀吉(はしば ひでよし)に敗れ、あえなく命を落としたのでした。

討ち取られた明智光秀(武智道秀)らの首級。

「謀叛人の明智に与した者を、許してはおけぬ!」

光秀を討ったことで織田政権の後見人(実質的な後継者)となりつつあった秀吉は、忠興に義定の粛清を命じます。

「……御意」

命を受けた忠興は、さっそく義定を長岡家の居城である宮津城(現:京都府宮津市)に招待しました。

「五郎様、これは兄上の罠にございますれば、行ってはなりませぬ!」

「そうは申すが、義兄上は明智殿の一件につき、羽柴殿へおとりなし下さるとのこと。参らずば心証を悪くしよう」

義定は伊也姫が止めるのも聞かず、万一の備えに家臣数名と100ばかりの兵を率いて登城したところ、案の定謀殺されてしまいました。

義定の粛清(イメージ)。

「あぁ、五郎様……」

随行した家臣や兵らもことごとく討ち果たされ、一色家では急きょ義定の叔父である一色越前守義清(えちぜんのかみ よしきよ)が家督を継いだものの、たちまち忠興の軍勢によって攻め滅ぼされてしまいます。

「おのれ……かくなる上は、一色の意地を思い知らせてくれようぞ!」

義清は壮絶な斬り込みをかけた末に討死に。かくして鎌倉時代から続いた源氏の名門・一色氏は滅亡したのでした。

夫の仇!忠興に怨みの一撃

「女子供には危害を加えぬゆえ、速やかに降(くだ)られよ!」

一色家の本拠地である弓木城(現:京都府与謝野町)に残っていたのは、女子供や老兵ばかり、もはや抗戦の選択肢はありません。

「もはやこれまで……」刀折れ矢尽きた城兵(イメージ)。

「……かくなる上は降るよりありませぬ。ご案じ召さるな、長岡は我が実家なれば、無下にはされますまい……」

当年14~16歳であった伊也姫の決断によって弓木城は開かれ、長岡陣中で沙汰を待ちます。

「おぉ、姫よ。しばらくぶりじゃな……」

やがて伊也姫の元へ忠興がやって来て、嘆願が聞き容れられたか女子供は放免、老兵たちは帰農することとなりました。

「すっかり大きく、また美しくなって……左京(義定)などにはもったいない……」

元から負けてもおらぬ戦さで、こちらから人質を出すなど気に入らなかったのだ……これでようやく奪い返せたと喜ぶ忠興でしたが、次の瞬間。

「……っ!」

鼻梁に、鋭い痛みが走りました。咄嗟の判断で躱(かわ)したものの、伊也姫が懐刀を抜いて斬りかかったのです。

「兄上……よくも五郎様を!」

二の太刀を繰り出す前に伊也姫は取り押さえられましたが、忠興の鼻には斬りつけられた傷が永く残ったと言います。

晩年の忠興。鼻の傷は残っている?Wikipediaより。

それ以降、伊也姫は歴史から姿を消しました。恐らくは狂人として幽閉され、孤独の中で死んでいったか、あるいは義定の菩提を弔うため、出家して尼にでもなったのかも知れません。

♪重ねてゆく過ち 戦いはまだ終わらない
つかみかけた愛さえ 引き裂かれてくこの世界……♪

※FENCE OF DEFENSE「時の河」より。

天正7年(1579年)から同10年(1582年)まで、たった3年間の短い夫婦生活でしたが、せめてあの世では幸せになって欲しいものです。

※参考文献:
阿部猛ら編『戦国人名事典』新人物往来社、1987年2月
河村昭一『南北朝・室町期一色氏の権力構造 (戎光祥研究叢書8)』戎光祥出版、2016年6月

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