
画像 : 豊臣秀吉 public domain
豊臣秀吉が天下統一のために行った関東攻め、いわゆる小田原征伐では、後北条氏に追随した多くの城が、豊臣軍の強大な兵力の前に成す術もなく落城していった。
多くの城が早期に抵抗を諦め、豊臣氏に降伏したことから、大規模な戦闘が起きることは少なかった。
しかし八王子城を舞台にして起きた「八王子城合戦」では、苛烈な戦闘の末に多くの犠牲者が出たと伝えられている。
一部では「関東屈指の心霊スポット」という不名誉な肩書を背負わされている八王子城ではあるが、この地で一体どんな悲劇が起きたというのだろうか。
今回は「八王子城合戦」で起きた悲劇について、くわしく掘り下げていきたい。
八王子城の歴史

画像:八王子城跡 御主殿跡へ通じる虎口と冠木門 public domain
八王子城は、現在の東京都八王子市の、かつては「深沢山」、今では「城山」と呼ばれる山の上に築かれた山城である。
八王子という名は神仏習合の神である「八王子権現」に由来し、醍醐天皇の時代に深沢山麓で修業していた華厳菩薩妙行が、牛頭天王とその眷属である8人の王子(御子神)を目の当たりにし、その地に八王子権現を祀ったことからその名が付けられたという。
また他説として、深沢山に日吉大社の末社(山王社)があったことから、日吉大社の神体山にちなんで「八王子山」と呼ばれており、山名から取って八王子城と名付けられたという説も存在する。

画像:北条氏照『義烈百人一首』wiki cc
後北条氏の第3代当主である北条氏康の三男・北条氏照が、小田原城の支城として標高460mの位置に築いた八王子城は、関東の西を守る軍事上の重要な拠点として機能していた城だった。
織田信長が築いた安土城を参考に構築された八王子城は、移転前に氏照が本拠としていた滝山城とは異なり、周囲を石垣で固めた山城という時代に逆行した造りではあったが、周辺の複雑な地形を活かした堅牢な城であったという。
城主の氏照が入城した1587年当時は、御主殿などを含む主要な部分だけが完成しており、氏照が小田原城守備のために城を出た後も、八王子城合戦当日まで増築が繰り返されたと伝えられている。
八王子城合戦

画像:御主殿跡から望む曳橋 public domain
豊臣軍が小田原征伐の一環として八王子城を包囲したのは、1590年6月23日のことである。
豊臣方の攻撃軍には、前田利家・上杉景勝ら有力大名の軍勢が加わり、その兵力は数万に及んだとも伝えられている。
その日、城主である北条氏照と家臣の多くが本城の小田原城の守備のため城を空けており、八王子城は城主不在、城代は氏照の家臣・横地吉信(よこちよしのぶ)がつとめ、少数の重臣たちと、領内で動員された雑兵たちが城を守っている状況であった。
その他にも、領内から動員・保護された民衆(女性や子どもを含む)が籠もっており、その数は数千人規模であったとされる。
23日未明、濃い霧に包まれた八王子城に対し、豊臣軍の攻撃が開始された。
主力部隊は東正面に位置した大手口と北側の搦め手から侵攻し、降伏を拒んだ八王子城の兵たちは豊臣軍とぶつかり合い、両軍ともに多くの死傷者を出す激しい戦いとなった。
豊臣軍からも多くの犠牲者が出て一時攻撃の足が止まったものの、やがて豊臣方が城周辺の地形を把握し、搦手方面から攻勢を強めたことが、形勢逆転の一因になったとも考えられている。
未明に始まった戦闘はその日のうちに決着がつき、兵たちの必死の抵抗もむなしく、八王子城は陥落してしまった。
城代をつとめていた横地吉信は、落城前に八王子城を脱出して檜原村に向かったが、その道中の小河内村の付近にて切腹し自害したと考えられている。
「御主殿の滝」で起きた悲劇の伝説

画像:御主殿の滝 wiki c じゃんもどき
八王子城が築かれた城山の、氏照の居館があった南麓の曲輪には、城山川にかかる「御主殿の滝」と呼ばれる小さな滝がある。
この滝には、八王子城落城にまつわる悲劇として、今日まで語り継がれている伝説がある。
それによれば、氏照の正室である比左をはじめ、御主殿に立てこもっていた女性や子どもたちは、もはや抵抗は叶わないと悟り、御主殿を守っていた武将たちとともに城山川上流へと向かった。

画像 : 御主殿の滝での後北条氏 イメージ(AI)
そして失意のうちに自刃し、次々とこの滝に身を投じたという。
麓の村では「城山川の水が血で赤く染まった、炊飯すると米が赤く染まった」という逸話もあり、やがて犠牲者を弔う風習へと姿を変え、この地域では現在も、小豆の汁で米を炊いた赤飯、いわゆる「あかまんま」を供える習わしが残っている。
豊臣軍に捕らえられた後北条氏の将兵やその妻子の首級は、小田原へと運ばれ、船上に並べられて城の堀に浮かべられた、あるいは城門近くに晒されたと伝えられる。
堅城と賞された八王子城が落城し、味方や妻子の首が晒し物にされる光景は、すでに下がりつつあった小田原城に籠る後北条氏の兵たちの、士気をさらに低下させるには十分な効果があった。
八王子城の落城後、翌日には小田原城に黒田孝高と織田信雄の家臣が入り、降伏勧告を行っている。
落城から2週間足らずの7月5日、後北条氏当主の北条氏直は、これ以上の抗戦は無意味と判断し、城兵の助命を願って降伏の意思を示した。
その4日後の7月9日、小田原城は開城し、後北条氏の降伏が豊臣秀吉に伝えられた。
城主を失い、時を止めた八王子城

画像:八王子城付近に建つ北条氏照の墓。墓の左右は北条氏照家臣中山家範とその孫、中山信治の墓。背後の石塔群は氏照の家臣団の墓とされている wiki c 鎌倉
北条氏直は、自身の切腹と引き換えに兵の救済を求めたが、徳川家康の娘婿であったことから、切腹は見送られた。
その代わりに前当主である北条氏政と宿老の松田憲秀、同じく宿老の大道寺政繁、そして御一家衆筆頭として北条氏照に切腹が命じられた。
氏照は兄・氏政とともに、7月11日、豊臣秀吉の命により切腹して果てた。
両名の首は後日、京都の聚楽第門前の橋で晒されたことが、当時の日記史料に記されている。
落城後の八王子城は徳川氏の直轄領となった後に廃城となり、明治以降も国有林とされたため、合戦当時の状態のまま保存されていた。
1992年から行われた大規模な発掘調査では多くの遺物や遺構が出土し、戦国時代当時から存在した庭石なども今なお残されている。
合戦時に起きた惨事から、心霊現象が起きる「肝試しスポット」として認知されている側面もあるが、八王子城跡は「日本100名城」にも選ばれた、戦国時代の文化を現代に伝える重要な遺跡だ。
本来この地が持つ歴史的な意味を踏まえ、先人たちと現在も保全活動を行う方々に敬意を持って現地を訪れたいところである。
参考 :
八王子市公式ホームページ
前川實(著)『決戦!八王子城 ― 直江兼続の見た名城の最後と北条氏照』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
























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