上杉謙信が1578年に急死した。何も跡継ぎのことを言わずに死亡したため、養子2人の間で後継者争いが起こった。
上杉景勝と上杉景虎の後継者争いのことを御館の乱という。御館の乱で上杉景勝は勝利し、上杉謙信の跡を継ぐことになる。
この乱については負の側面が残っている。この内乱で上杉氏の軍事力が落ちていたため、越中や信濃から織田軍、北関東から北条軍、東北からも攻められるなど崩壊する一歩手前まで追い詰められたが、本能寺の変により難を逃れた。織田信長の後、豊臣秀吉が政権を握るが、上杉景勝は早めに従うことを決意した。
ここでは豊臣氏に従った上杉景勝と関ケ原の戦いで負けた後の上杉氏について取り上げる。
豊臣家の五大老になった上杉景勝
上杉景勝は豊臣秀吉と同盟を結ぶことで、領国の拡大に成功した。領国は越後国だけしかなかったが、出羽国にも領国を広げている。
その後、北陸の雄として戦国大名の中で注目されるようになる。上杉景勝は豊臣秀吉からの信頼が厚かったと言われ、五大老の一人として指名されるとともに、1598年には越後から会津若松120万石に転封されている。
豊臣秀吉は晩年、幼い豊臣秀頼を補佐するための政治体制を定めた。その政治体制を五奉行・五大老という。
五奉行とは公家・寺社、財政、検地など政務を担当した5人のことを指す。その5人とは浅野長政・増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家である。
五大老とは豊臣政権で五奉行の上にある職名で、前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家・徳川家康・上杉景勝が任命された。6人の有力大名が任命されているが、小早川隆景が死亡したことにより五大老と呼ばれた。五大老の筆頭は徳川家康である。
直江兼続と直江状
豊臣秀吉の死後、五大老の筆頭である徳川家康が豊臣政権の実権を握るようになる。1600年に上杉景勝は徳川家康に会津で謀反の疑いをかけられた。
この謀反の疑いに対して、景勝の家臣直江兼続は家康に「攻めてこられるならば、上杉の名にかけて、お相手いたしましょう」という有名な直江状と呼ばれる挑戦状を送りつけた。
これを受けて徳川家康は会津に向けて兵を動かした。そして会津で徳川家康が戦っている隙に石田三成が関ヶ原で兵を挙げた。これが関ケ原の戦いである。
関ケ原の戦いの結果、徳川家康が率いる東軍の勝利で終わり西軍に東軍へ寝返る武将が相次いだ。
小早川秀秋の裏切りが東軍勝利の決め手になったと言われている。一方で、上杉景勝は東北地方で戦っていたが、関ケ原の戦いで西軍が負けたという知らせが入ると、直江兼続を殿にして退却した。
関ケ原の戦い後の上杉氏
関ケ原の戦い後、上杉氏は会津若松120万石から米沢30万石に減らされた。以降、徳川家康に従い、1615年の大坂の陣では徳川方について戦っている。
大幅に収入が減らされると、リストラによる人員整理が必要不可欠となるが、兼続はリストラをせずに雇い続けたと言われている。
景勝は30万石のうち6万石を直江兼続に与えたと言われている。この6万石については、直江兼続に後を継ぐ人がいなかったため、後に断絶となっている。
この断絶は「上杉家の減移封を自身が招いた責任を感じていたため」「直江家の知行を返上することで上杉家の財政を助けるため」など兼続が意図的に起こしたという説もある。
米沢藩の財政状況は苦しい状態が続き、9代目藩主上杉治憲(鷹山)は財政を立て直すために改革を行った。
まず、大倹約令を発して支出を抑えようとした。治憲が藩主の頃に天明の大飢饉が起こった。このときは粥を食べていたと言われている。
上杉治憲は殖産興業を興し、米沢織という特産品の生産・販売を始めた。
教育にも力を入れて、藩校の興譲館が財政難で閉校していたが、細井平洲という学者を招いて興譲館を再度開校させた。興譲館では身分に関係なく学ぶことができたと言われている。
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