本能寺の変
前田玄以(まえだ げんい)は、天文8年(1539年)に美濃に生まれた人物です。
若き頃は僧侶であったとされ、豊臣政権では五奉行の1人に抜擢された武将でもあります。
その経緯や年は不明ですが、織田信長に出仕することになり、後に信長の嫡子・信忠の家臣になったと伝わっています。
玄以は天正10年(1582年)の明智光秀の謀反・本能寺の変の際、信忠に従って京の二条御所にありました。
このとき信忠は、自身の嫡男であり信長の孫にあたる三法師(後の織田秀信)の庇護を玄以に命じ、玄以は三法師がいた信忠の居城・岐阜城から無事に尾張の清洲城へと退避させたとされています。
同年に行われた清洲会議において、羽柴秀吉は血筋の上からこの三法師が織田の正統な後継者であることを主張、自らが三法師の後見人となることで、織田家中の後継者争いで柴田勝家を制して主導権を握りました。
これが秀吉が天下人となるきっかけとなったことを考えると、三法師の危機を救った玄以の存在は大きなものであったと考えられます。
京都所司代から五奉行へ
玄以は、天正11年(1583年)からは信長の次男・信雄に仕えました。このときに信雄から京都所司代に任命されました。
この京都所司代とは、永禄11年(1568年)に信長が設置した京の行政機関の頂点でした。この職にあった玄以は、天正12年(1584年)頃から秀吉の権勢が京に及んでくると、それに伴って秀吉の家臣となりました。
玄以は、文禄4年(1595年)には秀吉から5万石を領し、丹波亀山城主とりました。豊臣政権においても京都所司代を引き続き務め、主として朝廷との折衝を担ったとされています。
巷説では、玄以は京都所司代の在任中に只の1人として京の人々を処刑することはなかったとされ、その課題の処理能力の高さに秀吉も感心したとされています。
また洛中においては、当初キリシタンの弾圧をしたとされていますが、後年にはキリスト教にも理解を示し、キリシタンの庇護をしたとも伝わっています。
玄以は、秀吉の権勢を誇示することとなった、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸でも奉行としてその成就に優れた行政手腕を発揮しました。
こうした貢献から、慶長3年(1598年)には秀吉の下命を受けて、豊臣政権下の五奉行の1人に任じられました。先のキリシタンの件や、自身が僧侶の出ということもあってか、五奉行としての玄以は、主に宗教関連の担当をしたとされています。
関ケ原後も領地を維持
秀吉が没した後も、豊臣政権内部で激化した主導権争いを諫めるべく、徳川家康が主導した会津・上杉征伐に反対の立場を取りました。
慶長5年(1600年)に石田三成が上杉と呼応し、大坂で兵をあげると、玄以も西軍に与しました。
玄以は、三成が自らの正当性を示そうと表した家康討伐の弾劾状に同意・署名を行いましたが、同時に家康に三成の動向を報告するなど、徳川への内通行為も行っていました。
更に玄以自身は豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に留まったものの、表向きには病を理由として最後まで出陣しませんでした。
これら徳川を利する働きを家康に評価されて、関ヶ原の戦いの後も丹波亀山の本領を安堵されています。
こうして玄以は、この丹波亀山藩5万石の初代藩主となりましたが、慶長7年(1602年)死去し、その子・茂勝が跡を継ぎました。
巷説では、長年京都所司代を務めた玄以の持つ朝廷との調整力に、高い利用価値を認めた家康の思惑があったとされています。
前田家のその後「キリシタン」
玄以の後を継いだ茂勝は、丹波八上へ移封され八上藩主を務めました。
生前の玄以もキリシタンを庇護した人物でしたが、茂勝は熱心なキリシタンであったと伝えられています。このため徳川幕府に危険視されていたこと、加えて政に不熱心であったとも伝えられています。
その後、こうした茂勝の行いに対して諫言をした尾池清左衛門父子など、多くの家臣を切腹させるなどの不行跡が咎められて、慶長13年(1608年)に徳川幕府から改易されることになりました。
後に、茂勝は出雲国松江藩主であり甥にあたる堀尾忠晴にその身を預けられ、晩年には改心して、キリシタンとして正しい生活を送るようになったと伝わっています。
「庇護を命じられた」というのは狭間潜りの言い訳という説もありますね