安土桃山時代

家康の従弟にして戦国の風来坊武将・水野勝成

齢16にしての武功

水野勝成

※水野勝成像(賢忠寺所蔵)

水野勝成(みずのかつなり)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将ですが、長い放浪の後に三河刈谷藩、大和郡山藩、備後福山藩の藩主を務めることになった一風かわった経歴を持つ人物です。

勝成は、永禄7年(1564年)に水野忠重の子として三河に生まれました。父・忠重は徳川家康の母・於大の方と兄妹であったと言われており、家康とは従弟同士という間柄でした。

父・忠重は、天正8年(1580年)頃には織田信長に仕えることになり、三河国刈谷を領する大名となったとされています。
同年、武田氏との第二次高天神城の戦いにおいて父・忠重と共に従軍した勝成は、齢16にして敵の首級を挙げ信長から感状を与えられたと伝わっています。

勘当と奉公構

勝成は本能寺の変で信長が没した後は、父・忠重と共に織田信雄に仕えました。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは豊臣方に相対し、この際に勝成は、父・忠重から兜を未着用だったことを咎められたと言われています。そのことに反発した勝成は、以後家康の下に付いたとされています。

勝成は家康の配下である井伊直政と武功を争い、勝成の家臣が豊臣方の猛将・森長可を討ち取る功を挙げましたが、父・忠重の勘気は解けず、両者の溝は埋まらなかったとされています。
そんな中で、天正12年(1584年)に勝成は父・忠重の家臣を斬り殺してしまいました。これはその者が、勝成の不行状を父・忠重に告げたことに腹立して起こしたものと言われています。

この行為に烈火のごとく怒った父・忠重は、勝成を勘当し、且つ奉公構(他家への仕官を禁止する触れ)としました。

このことから勝茂の流浪の武将としての15年にも及ぶ放浪が始まったのでした。

流浪する 水野勝成

勝成は、天正13年(1585年)3月には織田信雄の伝手を頼りに秀吉の幕下に入り、紀州雑賀攻めに従軍しました。続く同年の四国征伐には秀吉の子飼いの武将・仙石秀久に従ってこれに加わったとされています。

しかし、この仙石家の下からも姿を消すと、今度は九州に姿を現します。天正15年(1587年)に肥後領主を務めていた佐々成政へと仕官し、ここでは肥後の国人一揆の首謀者・隈部親永を討ち取ったとも伝えられています。

しかし成正がこの一揆の責を秀吉に問われて切腹になると、次に勝成は肥後の隣国・豊前の黒田へと仕官したとされています。

やがて黒田家も出奔し、天正16年(1588年)には成正の後に肥後に入った小西行長に仕官しています。
このときは天正17年(1589年)の天正天草合戦に従軍し、志岐城を攻略、さらに天草種元の本渡城を陥落させたとされています。
しかしその後も流浪は続き、加藤清正立花宗茂などの九州の大名のもとを渡り歩きましたが、いずれも短い期間で出奔したとされています。

やがて勝成は九州を離れ、備中の成羽の国人・三村親成の食客となったとされています。

勝成は、ここでも刃傷沙汰を起こし、一旦は出奔したとされていますが、再び親成の食客となって戻ると、そこで息子・勝俊をもうけたと伝わっています。

鬼日向の異名

※水野勝成が大垣城攻めで奪った日向正宗(三井記念美術館蔵)

勝成は秀吉が没すると、翌年の慶長4年(1599年)に戦の機運を察知して家康の幕下へと復帰しました。

このときようやく父・忠重と15年ぶりの和解に至ったとされています。

翌慶長5年(1600年)、勝成は家康に従って会津の上杉氏征伐に出陣しました。

ところがその直後、父・忠重が三成ら西軍の勧誘を受け、これを拒絶したことから殺害されるという事態が発生しました。会津に向かう最中にあった勝成でしたが、急ぎ三河へと戻ることになりました。そこで刈谷城へと帰還した勝成は、父の遺領・三河国刈谷3万石を継いで大名となりました。

勝成はこの後の関ケ原の戦いでは本戦には参加しなかったものの、三成方の大垣城を攻略する武功を挙げました。

このことから、戦後には従五位下への叙任を受け、「日向守」の官位も賜る事となりました。以後この官位名から、「鬼日向」の異名を持つことにもなりました。

勝成は、慶長19年(1614年)の大坂の陣でも子・勝俊と共に従軍しました。冬の陣こそ目立った武功はありませんでしが、翌年の夏の陣では、豊臣方の猛将・後藤基次(又兵衛)と干戈を交え、さらに明石掃部介勢を破って大阪城の桜門への一番乗りを果たし、97もの敵の首級を挙げたとも伝えられています。

10万石の治世

※福山城再建天守 wikiより

勝成は、大坂の陣での数々の武功を評価され、元和元年(1615)7月に大和国郡山へと加増・転封となり6万石を領しました。

この後、徳川幕府は福島正則を改易に処してその旧領を二つに分け、安芸には紀伊より浅野長晟、福山には勝成を移封する事としました。これは安芸以西の外様大名への抑え・牽制を図った施策と言えました。

これにより勝成は、元和5年8月に備後国福山へと国替えされて、4万石を加増された10万石の領主となりました。

勝成は福山に入ると領内をつぶさに巡視して、新しい城郭を築くにふさわしい場所を見定めました。そして今の位置に福山城の築城を行いました。

この城は江戸時代最後の城郭として瀬戸内海の港を統べる要衝に完成し、福山藩の居城となりました。
この後、勝成は寛永16年(1639)に藩主の座を辞した後、慶安4年(1651)88歳で世を去りました。

晩年の勝成は、若き頃の流浪の武人とはまるで別人であるかのうように、治世に尽した名君となりました。

 

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学生時代まではモデルガン蒐集に勤しんでいた、元ガンマニアです。
社会人になって「信長の野望」に嵌まり、すっかり戦国時代好きに。
野球はヤクルトを応援し、判官贔屓?を自称しています。

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コメント

    • 匿名
    • 2018年 10月 31日

    仙石が仙谷に変わってる

    • 修正いたしました。ご指摘本当にありがとうございます。
      気づいていなかったので感謝ですm(_ _)m

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