江戸時代

水戸黄門は本当に全国を歩き回っていたのか? 「副将軍という役職はなかった」

水戸黄門は本当に全国を歩き回っていたのか?

※茨城県水戸市千波公園にある徳川光圀像 wikiより

水戸黄門 といえば時代劇でおなじみの人物で、知らない人のほうが少ないくらいです。

テレビでは、印籠を悪代官に見せるシーンや同じ無のセリフ「助さん、格さん懲らしめてやりなさい」と記憶に残るセリフもあります。そんな水戸黄門様ですが実は徳川光圀という名前なのをご存知ですか? 水戸黄門は知っていても徳川光圀は知らない人は多いのではないでしょうか。

テレビでは全国行脚をしているイメージが強いですが、本当の水戸黄門はどのような人物だったのでしょうか?

徳川光圀の幼少時代は

水戸光圀(1628ー1701年)は初代水戸藩主·徳川頼房(よりふさ)の三男に生まれました。
頼房は徳川家康の十一男なので、水戸光圀から見て、徳川家康は祖父に当たります。

徳川御三家は尾張、紀伊、水戸の事を指しますが、尾張、紀伊は大納言ですが水戸は中納言なので一つ階級が下のようです。頼房が家康の末っ子という事が理由です。

光圀の母、久子は身分が低く側室にもなれませんでしたので光圀を身ごもった時に「生まないように」と頼房は命令しました。要は堕胎しろという事です。
しかし内緒で光圀を生み、幼少の頃は密かに家臣の家で育てられます。

光圀は出生を知ることなく育てられたので、父親との初対面は何と15歳の時でした。

光圀は子供の頃は不良だったようで、町で刀を振り回し気に入らないことがあればすぐに人を切ったり、見た目も派手な格好をしていたそうで吉原にも通っていたそうです。18歳の時に中国の歴史家、司馬遷史記に感動し勉強に打ち込むようになりました。不良少年から文武の道に励む青年へと脱却していきました。

人への思いやり、愛に溺れないこと、つらい事の先には幸せがあることが史記には書かれており感銘を受けたそうです。

そして将軍·徳川家光に気に入られ、家光から「」の文字をもらったり、跡継ぎ教育などを受けたりと水戸藩を相続する幸運に恵まれ、徳川御三家の1つ、水戸徳川家の当主をつとめました。

歴史書「大日本史」の作成

※弘道館所蔵の大日本史 wikiより

光圀が漫遊記の主人公に選ばれたのは「大日本史」を作成していたからだと言われています。

光圀は大日本史を作成するに当たり、介三郎宗淳覚之進澹泊に諸国を歩かせ史料を収集させていました。2人の全国行脚が、諸国漫遊の原型になったのです。

光圀は何をしていたのか気になりますが、隠居後はときどきお忍びで領内を歩き回って巡視したり、農家の人たちと交流したりしたと伝えられています。

たしかにそこだけ連想すると気さくな水戸黄門様ですね。

光圀が29歳になった年に歴史書「大日本史」の作業に取り掛かります。
大日本史とは、神武初代天皇から後小松100代天皇の世をまとめた歴史書です。

完成には249年もの期間がかかった水戸藩の一大事業でした。やはり司馬遷の「史記」を読んだ影響から日本の歴史書を作りたいと考え始めたのです。

光圀にはもう一つ考えがあり、武家に生まれたのに平和な江戸の世では武功で名を上げられないので、この歴史書を完成させれば後世に名を残せるとも考えていたようです。
しかし水戸藩の財政は苦しく、「大日本史」作りに藩の収入の3分の1近くもかけてしまい、さらに財政を圧迫していました。

テレビで見ている水戸黄門ではなかった

テレビでは黄門様と助さん格さんの3人で日本中を歩き回っていますが、実際は介さん、覚さんの2人という事が判明してきており、もしテレビの水戸黄門のように3人で全国行脚をしていたら黄門様はほとんど水戸には帰ってきていないことになります。

実際は関東地方と熱海、金沢などにしか足を運んでおらず大抵は水戸藩内でブラブラ散歩をしていただけのようですね。

では、なぜこんなにも水戸黄門の全国の旅が有名になったのでしょうか?

これは講談師(講談の口演を職業とする人)のつくり話といわれています。
諸国を廻ったという鎌倉幕府の執権·北条時頼の「廻国伝説」を元ネタにしました。

さらに十返舎一九の『東海道中膝栗毛」を加味してつくった話が、漫遊記です。ではなぜ、黄門様が漫遊記の主人公になったのでしょうか。
全国を廻ったのは、大日本史の資料集めのための家臣たちで、そのイメージが強かったのではとされています。

副将軍という役職はなかった

こちらにおわす方は天下の副将軍…

なんてセリフを毎度のこと聞き覚えがあると思いますが、実は江戸時代には「副将軍」なんていう役職は無かったのです。副将軍と呼んだほうがインパクトは強いですからね。

水戸徳川家の藩主は水戸藩にはおらず、江戸に常駐していました。

国元と江戸を1年置きに行き来する「参勤交代」も免除され、江戸から水戸には帰っていなかったようです。
水戸藩主の中でも光圀さんは国元に帰っている方で、数にすれば11回ほど。

生まれてからの5年と隠居して亡くなるまでの10年は水戸で過ごしましたが、それ以外はずっと江戸にいたのです。
いつも将軍の傍にいるために皆から「副将軍」って呼ばれていました。いわゆる仇名です。

「水戸黄門」という呼び名は、「水戸の中納言」という官職を中国名で呼び変えた洒落から来ているのです。
そうなると、水戸の中納言の官職に就いていたお方は7人いたので、みな「水戸黄門様」なんです。
光圀さんの父も、光圀さんの養子である3代目も水戸黄門様なのです

実際の光圀は全国行脚をしておらずイメージとは違いましたが、藩主が不在なのも問題があるので納得がいきますね。

ただ、本当に黄門様がお供を引き連れて全国を旅しているのを想像すると何故だかワクワクする気分になれます。。

参考文献
鈴木暎一『徳川光圀』
梶山孝夫『大日本史と扶桑拾葉集』

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草の実堂編集部 新井弘樹

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