江戸時代

徳川家斉 「53人の子を作った女好きのオットセイ将軍」の大名家ファミリー化計画 〜前編

私達は江戸の風景をTVドラマや映画などでよく目にするが、実はあの頃の江戸の人口は100万人を越えていた。

特に徳川幕府第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の時代に、娯楽や文化・芸術で賑わいを見せた。

家斉は大奥に入り浸って多くの側室を持ち、産ませた子供は男女合わせて53人という女好きの「オットセイ将軍」として有名である。

家斉は将軍在職期間50年と徳川幕府の将軍だけではなく、歴代の征夷大将軍の中でも最長であった。

今回は、53人もの子だくさん将軍・徳川家斉の大名家ファミリー化計画について、前編と後編にわたって解説する。

徳川家斉とは

徳川家斉

画像 : 徳川家斉 public domain

徳川家斉は安永2年(1773年)御三卿の一つである一橋家の当主・一橋治済(ひとつばしはるさだ・はるなり)の長男として生まれる。

安永8年(1779年)10代将軍・徳川家治の世継ぎでたった1人の男子である家基が18歳で急死、家治の弟である清水重好にも子供がいなかった。
そのために、家斉の父・治済と老中・田沼意次(たぬまおきつぎ)が、家斉を次の将軍とするために工作する。

家斉は天明元年(1781年)閏5月に将軍・家治の養子となり、天明6年(1786年)家治が亡くなると天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。

寛政の改革

徳川家斉

画像 : 松平定信

将軍に就任した家斉は、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、陸奥白河藩主・松平定信を老中首座に任命する。

これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。

天明2年(1782年)~天明8年(1788年)には天明の大飢饉が起き、さらに浅間山の噴火による火山灰によって農作物が壊滅的な被害を受けて、全国で数万人~数十万人が餓死するほどの深刻な状態に陥る。

特に東北地方の被害が甚大で、農村部から逃げ出した農民が江戸などの都市部に流入し、治安も悪化した。
特に江戸は、1,000軒の米屋と8,000軒以上の商家が襲われるという無法状態が3日も続き、その後このような打ち壊しが全国各地に波及した。

松平定信は寛政の改革という緊縮財政や風紀取締りで、幕府財政の安定化を図ろうとしていた。

しかし、この改革は役人だけでなく庶民にまで倹約を強要し、様々な娯楽の統制で文化は停滞、経済政策もさほどの成果もあげられず、神経質で疑り深い定信の性格もあって家斉は定信を6年で罷免した。

大名家ファミリー化計画

徳川家斉

画像 : 水野忠成(みずのただあきら)

定信を退けた家斉は側用人・水野忠成(みずのただあきら)を老中首座に任命し、寛政の改革に携わった幕臣たちを幕政の中枢から遠ざけて自らが政治を行った。

当初は早朝から日が高くなるまで真剣に政治に取り組んでいたが、幼い時より放蕩な生活(遊び好き)だった家斉は、宿老たちがいなくなったことをいいことに奢侈な生活を送るようになってしまう。

特に鷹狩りを趣味として関東中の狩り場に足しげく通い、鴨だけではなく猪や鹿狩りも行っている。
また、江戸湾に16mの巨大なクジラが現れると「目の前で見たい」と将軍家の別邸・浜御殿の池に引き入れさせ、泳ぐ姿を見て楽しんだという。

さらに老中首座となった水野忠成が、禁止されていた賄賂を公認して収賄を奨励し、家斉もそれを認めてしまった。

そんな家斉を最も象徴するのが「色好み」である。

15歳から大奥に通い40人を越える側室を持ち、生涯に男子26人・女子27人、合計53人の子供を設けた。
そして家斉は、生まれた子供たちを全国の大名家に世継ぎや正室として次々と送り込んでいった。

その結果、全国の主だった大名の多くが家斉の息子や娘婿となっていったのである。

その方法は大名たちの弱みにつけ込む実に巧みなもので、「お金」と「家格」を用いて「大名家ファミリー化計画」を実行に移していったのである。

お金

大名側からすると、将軍家から若君様を迎えると支度金が貰え、お姫様を貰うと化粧料やたくさんの女中たちを連れていくため1~2万両が貰えた。
その他に、迎える大名側が幕府に借金をしていた場合、その借金を免除されるというメリットまで得られた。

参勤交代や手伝い普請などで財政難に苦しんでいた各大名家にとっては、借金を免除され、金銭的な援助を受けれる事は大きな恩恵であった。

その金額は莫大なものだった。

例えば御三家の水戸藩徳川家は、家斉の娘を正室に迎えたことで幕府に借りていた19万2,000両(現在の価値で約200億円)の返済を免除され、化粧料も手に入れた。
100万石の加賀藩前田家も、家斉の21番目の娘を正室に迎え、化粧料として毎年1万8,000両(現在の約18億円)を貰えた。

大名家の中には世継ぎがいるにもかかわらず廃嫡して家斉の息子を後継ぎに貰い受けた藩もあり、播磨明石藩松平家は2万石を加増されて10万石格の大名となっている。

家斉の大名家ファミリー化は外様大名にも及び、徳島藩蜂須賀家は家斉の23男を後継ぎに受け入れ、仙台藩伊達家や長州藩毛利家も家斉の娘を正室として迎えている。

このようにして将軍・家斉のファミリーとなった大名家は全国21家に及んだのである。

資金の捻出

家斉は老中・水野忠成に命じて、財政再建のためとして文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳と大量発行を行った。

徳川家斉

イメージ画像

家斉の莫大な資金の捻出は貨幣改鋳によるもので、全国に流通していた小判を回収して金の含有量が少ない小判に作り直させたのである。
浮いた金の分が幕府の利益となり、小判以外の通貨にもそれは及び、利益は1,550万両近くにもなった。

このように強引に捻出した潤沢な資金で、家斉の大名家ファミリー化計画は行われていたのである。

家格

もう一つ家斉が大名家ファミリー化計画に利用したのが、家の「家格」であった。
家斉の子供を受け入れた大名を優遇し、家格を上げたのである。

戦の無い平和な時代になった江戸時代は、大名たちは家格を上げることに躍起になっていた。
それは江戸城で将軍に拝謁する時など、家格によって大きな格差があったからだ。

諸藩の大名が将軍に謁見する時、大名たちが控える部屋は家格によって分けられる。
家格の低い大名たちは将軍との謁見時は集団で平伏のまま、しかも立ったままの将軍に目通りすることしか許されなかったのである。

大名行列でも家格の高い大名家は、先頭の持ち槍を2本にすることができた。
たった1本の持ち槍のために、大名たちは血まなこになって競ったという。

江戸城に登城する時や大名行列では、自分より家格の高い大名に先を譲り、駕籠から降りて頭を下げなければならなかった。

そのため、家格を上げたい大名家は家斉の子供を受け入れたのである。

後編では、なぜ徳川家斉がファミリー化計画を推し進めたのか?そしてファミリー化計画の顛末について解説する。

後編 : 徳川家斉 「大名はみんな俺の子供」なぜ子を押し付けたのか? 大名家ファミリー化計画 〜後編

 

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