江戸時代

「江戸の剣聖」と称された剣豪・辻月丹

辻月丹

辻月丹

辻月丹

辻月丹(つじげったん)とは、江戸時代に多くの大名家から師範の声がかかり、5,000人を超える門弟を抱えた「無外流」を興した剣豪である。

戦国時代にその強さと多くの弟子を育て上げたことで剣聖と謳われた「塚原卜伝」や「上泉信綱」と同じく「江戸の剣聖」と謳われた剣の達人である。

彼が編み出した「無外流」は、19年間の禅修業によって開眼し「つかみどころのない剣法」と評された剣術であった。

家庭を持たず生涯を剣一筋に生き、金銭欲がなく平然と貧乏暮らしを続けた「江戸の剣聖」・辻月丹について迫る。

生い立ち

辻月丹は、慶安元年(1648年)近江国甲賀郡馬杉村(現在の滋賀県甲賀市甲南町)の郷士・辻弥太夫の次男として生まれる。
幼少の頃よりただ一人で黙々と剣術の修業に励み、13歳の時に京都の「山口流」山口卜真斎に学び、延宝2年(1674年)26歳の時に免許皆伝となった。
(ただ、一説には月丹が師事したのは伊藤将監という説もある。)

この13年間の修業中は近江国の岩尾山・油日岳や洛北の愛宕山に籠って神仏に祈願し、北国越後辺りを巡国修業などもしていた。

師・山口卜真斎は常陸国鹿島に生まれ「天流・鞍馬流・タイ捨流・神当流・富田流・神道流」などの諸流を学んだ後に各地で兵法勝負を繰り返し、京都で異人の童子が二刀を振っているのを見て「山口流」を興した。

月丹が免許皆伝を受けた「山口流」は二刀流の流儀であり、月丹は江戸に出て小石川に「山口流」の道場を開いた。

貧困の求道者

しかし、月丹の興味は剣法だけで、収入などに無頓着であったために身なりがひどく、着物の裾から綿がはみ出し、羽織の肩や袖も擦り切れたものを着ていた。

江戸に出て間もない時に、月丹は自分の実力を試そうと有名な剣士の道場を訪ねたが、あまりにもみすぼらしい着物を着ていたために誰も相手をしてくれなかったという。髪の毛は油もつけずぼうぼうで、紙のコヨリで束ねていただけであった。

ある時、月丹は町で数人の武士ケンカになりそうになった時に、髪のコヨリが切れてしまった。
ぼうぼうの髪の毛が風に乱れて月丹の顔に垂れ下がり、その顔を見た武士たちはびっくりしてその場を逃げ出したというエピソードもある。

無名の「山口流」と田舎者の兵法者は江戸の武士たちには不評で、月丹はわずかな弟子と貧乏生活と稽古を続けた。

そんな中でも剣法への興味が尽きない月丹は、多賀自鏡軒から「自鏡流」の居合術を学び、己の剣に磨きをかけた。

居合を極めた月丹の剣は凄まじく、師・山口卜真斎が江戸を訪れた時には居合術を披露し、灯明の火を抜刀で3回消して師を驚かせている。

無外流

剣術には技や力の修業だけなく心の修業も必要だと感じた月丹は、麻布桜田町にある吸江寺の石澤良全のもとに師事して、禅と中国の古典を学ぶ。

延宝8年(1680年)45歳の時に悟りを開き、亡くなった師・石澤良全の名で(げ)を授けられた。

その偈は「一法実無外 乾坤得一貞 吹毛方納密 動着則光清」を与えられて、元禄6年(1693年)名を「月丹資茂(げったんすけもち)」とし、流派名を偈から取って「無外流」とした。

こうして一介の田舎兵法者だった月丹は、長年の参禅によって禅の悟りを開いた剣客「辻月丹」として有名になり、吸江寺を訪れる大名とも対等に語ることが出来るようになっていった。

月丹の「無外流」の構えは「へなへなしていた」というように表現されている。
まるで風にそよぐ柳とでもいうのか、押せば引く、打てばするりとすり抜ける、なんともつかみどころのない剣法であったという。

「無外流」は禅の思想と深く結びついていた。禅自体が文字によって明確に定義することを避ける思想である。
理解しづらく、つかみどころのない剣法が月丹の剣術の神髄であった。

月丹は弟子たちにも禅を学ばせ、禅と剣は「一如(いちじょ・同じもの)」という思想を理解できた者にしか免許を授けなかったという。

江戸の剣聖

その後、月丹の門人・杉田庄左衛門が半蔵門堀端で親の仇を討ったことが評判になって「無外流」の名が知られていき、大名や旗本も入門するようになった。

特に厩橋藩主・酒井忠挙や土佐藩主・山内豊昌らが弟子入りしたことでさらに月丹の名が高まり、大名家32家・幕府の直参156人・陪臣930人にもなった。
最盛期の門人の数は大名・小名で50家以上、陪臣を含めると全国で10,000人を超えたとも言われている。

当然、月丹のもとには数多くの大名家から剣術指南役として申し出が殺到したが、月丹は全て断った。

その代わりに「無外流」第二代となった甥・辻右平太を厩橋藩・酒井家に推挙し、「無外流」第三代の養子・都治記摩多資英を土佐藩・山内家に推挙した。

辻月丹

徳川綱吉

月丹61歳の時に厩橋藩主・酒井忠挙の取り計らいで、御目見得の儀として徳川幕府第五代将軍・徳川綱吉に謁見の許可が出たが、不運にも綱吉公の死去により実現出来なかった。

しかし、一介の浪人剣客に御目見得の許しが出たこと自体、当時としては破格の出来事であったのだ。

晩年

江戸の町道場から始まった「無外流」は、大名自身が弟子として学んだことから全国に広がった。

月丹自身は家庭を持たずに剣の探求者としての生涯を望み、大名家には優秀な弟子を指南役として推挙し各地に招かれていった。

「無外流」は自鏡流居合をやっていて三代・都治記摩多資英の伝書には「無外流居合」と書かれるようになった。

享保12年(1727年)6月13日、禅の師・石澤良全と同じ日に座禅を組み左手に念珠を持ち、右手に払子を持って一生を閉じた。79歳であった。

剣と禅を一如とした辻月丹の「無外流」は継承されていき、現在では「無外流居合兵道」として継承されている。

 

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