関東方面軍を率いた 滝川一益
滝川一益(たきがわかずます)は織田信長が本能寺の変で討たれるまでは、織田家の関東方面軍の指揮官を務めた人物であり織田家中でも指折りの有力な武将でした。
年齢的にも信長よりも9歳程年長にあたり、織田家に仕えるまでの前半生はよくわかっていません。
明智光秀と同じく途中から織田家に仕えた新参者にも関わらず、方面軍を任される程信長の信頼を得たことは事実です。
しかし一益は、その地位を本能寺の変によって失うことになりました。
光秀を討伐する山崎の合戦にも加われず、その後の織田家内での序列を決定することになった清州会議にも間に合わなかったことから、羽柴秀吉の台頭に対抗することが出来ませんでした。
織田家への仕官
一益は、大永5年(1525年)に滝川一勝(もしくは滝川資清)の子として生まれたとされています。
信長に仕えるようになった時期は不明ですが、鉄砲の上手としてその技術を買われ仕官することになったと伝えられています。
先んじて織田家に仕官していた従弟の池田恒興の仲介によって、一益が仕官したとする説が有力なようです。
一益は永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いに従軍し、同年には北伊勢の桑名に進出して蟹江城を構築、城主となりました。
続いて一益は、永禄6年(1563年)には徳川家康と信長との清州同盟の締結交渉役を行っています。
更に永禄10年(1567年)・永禄11年(1568年)の2度の伊勢攻めにおいては織田軍の先陣を務め、調略を含めて織田の勢力拡大に貢献しました。
信長包囲網との戦い
一益は、元亀元年(1570年)9月に起こった石山本願寺の蜂起・石山合戦の開始に伴い、これに呼応して蜂起した長島一向一揆勢に対し、北伊勢、尾張、さらに各地へと出陣しています。
一益の働きは、この一揆勢との戦いでは、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いが特筆に値します。
九鬼嘉隆が率いた黒船6隻(鉄甲船)と共に一益も軍船で出陣し、石山本願寺への補給を支えていた毛利勢の水軍を撃破、この補給を断ち石山本願寺の降伏に繋がる働きをみせました。
これに前後して、朝倉氏との天正元年(1573年)の一乗谷城の戦い、武田氏との天正3年(1575年)の長篠の戦いにも加わって織田家の勢力拡大を支えています。
武田滅亡に貢献
一益は、天正10年(1582年)に信長の嫡男・信忠が武田攻めの軍を起こして信濃へと侵攻するのに従い、森長可らと攻略の主軸を担いました。
一益はこの甲州征伐において天目山で武田勝頼を自刃に追い込む大きな武功を挙げています。
戦の後、武田氏の遺領は分割され、先の武功により一益には上野一国と信濃小県郡・佐久郡が与えられ、同時に「関東御取次役」にも命じられました。
この時点が武将としての一益の栄華の頂点だったと言える時期だと言えます。
因みに一益は武勇に秀でただけでなく、一方で茶の湯も嗜む風流を介する人物でもありました。
巷説では一益自身はこの武田攻めの褒美として、領地ではなく信長が所有していた名物茶器である茶入れ・「珠光小茄子」を所望したとも伝えられています。
しかしその願いは叶わず、代わりに名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜されたとされています。
本能寺の変の影響
しかし一益の関東支配は短命に終わることになります。
天正10年6月2日に明智光秀が本能寺の変で信長を討ったことで、一益らが拝領した旧武田の領地では武田旧臣の蜂起が起こりました。
これによって北信濃の森長可が美濃へ逃れ、南信濃の毛利長秀もその地を追われ、甲斐の川尻秀隆は誅殺されました。
一益は、ここを勢力拡大の好機とみた北条氏総勢5万6千もの大軍の侵攻を受けました。ここで1万8千の兵を率いて迎撃に出た一益は、緒戦こそ何とか勝利したものの、3倍にも上る北条に抗しきれず人質を取って撤退を敢行しました。そして何とか美濃へと逃れ、その後ようやく伊勢へと同年の7月1日に戻ることが出来ました。
しかし6月27日に清州で開かれた清須会議に参加することが出来ず、以後織田家中における一益の序列・立場は急激に低下し、挽回することはありませんでした。
晩年は秀吉の配下へ
その後一益は、急速に台頭した秀吉と敵対、柴田勝家に与して戦う道を選びました。
一益自身は善戦したものの、天正11年(1583年)4月には勝家が賤ヶ岳の戦いに敗れたことで長嶋上へ籠城、同年7月に降伏することになりました。
この結果一益は所領を没収されたため、京にて剃髪して丹羽長秀を頼って越前へと赴いて蟄居しました。
しかし、翌天正12年(1584年)に織田信雄が徳川家康と共に秀吉に反抗して兵を挙げました。この小牧・長久手の戦いが起こると、一益は秀吉から呼び戻され、秀吉陣営に加わって従軍しました。
戦の後には秀吉から3千石を与えられて、さらに秀吉の下で関東方面の外交に関わりました。
一益は、天正14年(1586年)9月に享年は62で死去したと伝えられています。
本能寺の変で織田の重臣の地位から外れたとはいえ、一益はその後の北条、秀吉との戦いにおいても圧倒的に不利な状況で善戦しました。
秀吉の優位を見誤った感があるとは言え、晩年まで戦い続けた勇猛な武将だったと思います。
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